たけのこ山を探せ(2) [合戦]
引き続き、道前平野近隣のどこかに存在するはずの「たけのこ山」について考えてみます。
道前を巡る争い
そもそも伊予の「道前」とは「道後」と対をなす言葉であり、当初は伊予14郡のうち、下7郡が道前、上7郡が道後であったようです[1]。 その後、道後が道後平野、さらに狭義には河野氏の本拠湯築城、道後温泉周辺などを指すようにその範囲を狭め、道前もまた道前平野を指すようにその範囲を狭めていきます。
道前平野は室町期には河野氏の勢力圏にありながらも、隣接する新居郡の分郡守護権を細川氏に奪われたことにより、境目地域のひとつとなっていました。
黒川氏の存在と騒乱
戦国末期、周布郡の有力国人黒川氏は河野氏との縁戚関係を結んだり、越智一族でやはり河野氏との縁戚関係にある正岡氏から養子が入るなど、河野氏との深い関係が見られます。 一方では、長宗我部氏に従属した新居郡の金子元宅とも交渉をもっていたようです[2]。
道前地域での騒乱に目を向けると村上彦右衛門の覚書では新居郡の石川氏と結んで来島村上氏と争っている存在でした。 この他にも壬生川氏との争いが伝わり、壬生川摂津守通国の猿楽に招かれた黒川通長が通国を殺害し、逆に壬生川氏から反撃を受けて通長も死ぬと言った伝承も残ります[3]。
これらの記録、伝承に対して、実際に年不明の黒川通博書状[4]には
去年者就私領得居 及違乱総劇候処。湯 月以下知即令和平候、
との記述があり、当時黒川氏と得居氏(当主は彦右衛門実兄の通幸)に争いがあり、湯月(河野氏)により黒川氏側の主張を認める裁定がなされたようです。 これが具体的にどのような争いであるかは不明ですが、黒川氏が他地域へと進出した様子はありませんので、道前地域での争いについてのものである可能性が高いのではないでしょうか。
一方、壬生川氏についても、行元の出奔という事態が知られており[5]、その本拠地北条はかつては細川氏の被官多賀谷氏のものであったためか、金子氏がその領有を長宗我部元親に対しても強く主張していたようです[6]。
地名にみる竹子山
肝心な「たけのこ山」ですがここまでの史料からは、どこに位置するのか、はっきりしませんが、その場所について検討を行ってみます。
推定において参考となる情報は以下のものでしょうか。
- 壬生川(鷺森城)から周布郡へ進出する途上
- 街道筋近くの高所で古塚(墳)がある場所
- 毛利軍の本陣を置くことが可能であった
これらの条件を考慮しつつ、たけのこ山を探してみます。 「東予市誌」には旧桑村郡内の地名が掲載されてはいますが、竹子山そのものはみつかりません[7]。 ただし、いくつか竹の字を用いた地名がありますのでこれを確認してみます。 この竹の字が現れるホノギは下記のように吉岡地区に目立ちます。
たけのこ山を探せ(1) [合戦]
今回は伊予の合戦の記録に現れる「たけのこ山」を取り上げます。 位置的には中世風には府中の南の境目とも言える世田山よりも南、すなわち周布、桑村二郡のどこかであることは確かかと思うのですが、まだ該当する場所を筆者は確認できていません。
たけのこ山
この山について触れている史料は以下の3つです。
一つは紀州藩士となった村上彦右衛門吉清の没後に記録された「村上彦右衛門義清働私共覚候分書付上申事」であり、この中に「竹の子合戦」の文字が見えます[1]。
上記、彦右衛門についての覚書とも関わりが考えられますが、彦右衛門の兄村上通総についての記録で、久留島藩内で成立した「来島通総一代記」[2]にも「竹之子」の地名が現れます。
最後は吉川元長が天正13年の四国攻めの折りに、国元の僧周伯惠雍へと送った書状であり、ここには「竹子山」に陣を敷いたとの記載が出てきます[3]。
以下、まずは「たけのこ山」で何が起こったと伝わるのかをみていきます。
村上彦右衛門の活躍
村上彦右衛門についての覚書では、「竹の子合戦」は敗軍となった来島衆の中でまだ年若い彦右衛門が戦場に踏みとどまり、味方を勝利へ導いたとするもので、以下の通り記されます。
与州とうせん竹の子合戦の時彦右衛門十四歳にて御座候敵は黒川同為加勢石川勢張出申候久留島勢纔にて指むかひ候處に敵待伏候を味方の先手不心得にて被追立総敗軍仕壬生川のかこひまて引取候處に彦右衛門壱人道より少脇に古塚御座候高所へ上りこれにて討死可仕とふみ留下知仕候付味方之内村上三右衛門見付候て引返し一所に居申候敵大勢参り候中より八九人程進出さしむかひ候處に則彦右衛門鑓合申候三右衛門も同前に合せ申候其内に味方の者共引返しつきかかり申故敵敗軍仕候事
ここから得られる重要な情報を抜き出すと下記のようになるでしょうか。
もうひとつの「河野家譜」 [史料紹介]
『河野家譜』と言えば、『予陽本』[1]と『築山本』[2]が著名ですが、これらの刊本を探している際に刊行されているもう一つの『河野家譜』に遭遇しました。 この『河野家譜』について、内容的にはほとんど伊予の戦国史とは関連が薄いこともあってか、これまであまり伊予関係の論考上でも取り上げられることがなかったようですので、ここで簡単に紹介してみます。
概略
この『河野家譜』[3]ですが、大聖寺藩に仕えた儒者河野春察(通英)の家系が伝えたものです(以下本項では『家譜』)。 簡単に言えば林羅山の高弟、河野春察の父祖を河野氏に求めており、庶流の通生の家系が伊予から中国に渡り、毛利氏に仕えた後に江戸に出たとするものです。
室町期の有力な河野氏庶流として知られる通生、勝生、明生、通吉の名前が歴代として現れますが、その活動地域を周防や安芸に求めていることや年代の不整合など気になる点も存在します。 その背景には春察が仕えた太田資宗との関わりが大きく影響しているのではないかと推測出来そうです。
資宗は徳川家光から『寛永諸家系図伝』の編纂を命じられており、その作業に資宗に仕えていた春察も加わっていたようです。 また、資宗の娘として稲葉正吉(稲葉正成子)室、一柳末礼室がいたとのことですので、春察が仕えた資宗は数少ない越智姓を名乗る大名家と縁戚関係にあったことになります。 春察がこの時期に数種の河野系図を目にしたことは間違いないのではないかと思われます。
林氏と河野氏
以下、この家譜がどのような歴史を描いているのか、独自の系譜を伝える部分の概要をみていきます。
通生
通直の子で林九郎、兵部少輔、河野を改め林と称する。 永享10(1438)年に生まれ、外祖父林壱岐守高生の養子となり林を名乗るも、父の親愛により家譜證文を授けられる。 応仁元年から文明5年まで洛中で活動し、文明13(1481)年7月3日没、44歳、法名は道林長松院。
この家譜では河野本家からの別れを通直(教通のことと思われます)の子とする通生においていますが、通説に従えば通生は教通の弟としてその守護権力を支えた人物として知られます。 また細川氏との抗争においても高名が伝わりますが、そのような事績はこの『家譜』では触れられていません。
通勝
通生の子で林三郎、兵部少輔、壱岐守、初め勝生。 寛正6(1465)年正月朔日生まれ、明応2(1493)年に弾正少弼通直との間に故あって周防に出奔。 永正4(1507)年8月山口で没、43歳。
その妹に三浦越前守室となった女性がいたとしていますが、この三浦氏は大内氏配下の周防三浦氏を指しているものでしょうか。
明応年間であれば河野氏の当主は教通のはずで、仮に生まれていたとしても幼年で家督継承前の弾正少弼通直が現れるのは不自然です。 周防に逃れたとする以降については、享禄3(1530)年に弾正少弼通直に反逆し周防へと逃れた重見通種の所伝を想起させます。 弾正少弼通直の名前がここに現れる背景はまさにここにあるのでしょう。
周防~毛利氏家臣として
以降、中国地方での活動を伝えます。
通明
通勝の子で初め明生。九郎、民部大輔、壱岐守。 文亀2(1502)年に山口生まれ、大内義隆に属し、防州若山城に在城。 天文21(1553)年、毛利元就に属し、厳島合戦の後は11日に山口へと進軍し大内義長の兵と戦い討死。 享年54歳、法名道傳。
ここにも重見通種の所伝と重なる部分が見えています。 若山城は陶晴賢の居城であり、通種についても若山城滞在が伝わります。 その通明が唐突に毛利氏へと属しているのは、主殺しとして忌避される晴賢に従っていたと書くことを躊躇した為ではないでしょうか。 弘治元年の山口侵攻も事実に反しますが、通明の死に場所を求めての辻褄合わせにも見えてきます。
戦国伊予の合戦いろいろ [合戦]
戦国時代の伊予はどの程度戦乱に巻き込まれたのでしょうか。 その点について言えば、少なくとも世に広く知られる大規模な合戦はほとんどなかったと言えるように思われます。 ここでは伊予国内で起きた主に16世紀の合戦を簡単に取り上げるとともに、それが近世にどのように影響したのか考えてみます。
戦国伊予の合戦
私見で戦国時代後期の伊予での主要な合戦のうち、特にトピックのあるものを以下に示します。
- 鳥坂合戦(永禄10(1568)年):河野、毛利氏 vs 宇都宮、一条氏
- 三間表の戦い(天正6(1578)年):西園寺氏 vs 長宗我部氏
- 花瀬合戦(天正7(1579)年):河野氏 vs 不明
- 天正の陣(野々市原の戦い)(天正13(1585)年):毛利氏 vs 金子、長宗我部氏
これら合戦の特徴は花瀬の戦いを除けば伊予国外からの軍勢と伊予国内の勢力が戦ったものであるということでしょうか。 そして、逆にこの時代、伊予国内の勢力が主体となって国外へ進出した例はほとんどないと言えるかと思います。
合戦の規模としては先の一覧であげた鳥坂合戦、天正の陣の2つが最大のものであると思われます。 いずれの戦いにも毛利軍は万余の軍勢を伊予に上陸させており、この2つの戦いを除けば戦国時代に伊予国内で一万人以上の軍勢が集ったことはなかったのではないでしょうか。
『予陽河野家譜』には花瀬合戦で忽那通著、土居通利が討死したと記されます[1]。 忽那通著の死を受けて子の忽那亀寿丸へ出された感状の原本が確認された[2]ことで花瀬合戦の存在は確認されたと言えそうですがなお詳細は不明なようです。
近年喜多郡関係では長宗我部氏と関係を強め、反河野氏に動いたと見られる曽根氏関連の史料の発見が伝えられます[3]。 『家譜』の伝える大野直之との戦いとは裏腹に異なる実態があったのかもしれません。 むしろ上記書状により喜多郡への長宗我部氏の介入が確認できるのは天正12年まで下るとのことであり、宇都宮氏の終焉を含め、未解明の状況が続きます。
幻の合戦
一方、軍記物や伝承には残るものの、合戦の存在自体が事実とは思われ難いものも存在します。
田坂鑓之助のブランド [人物]
能島、来島の両村上氏が共に伊予を離れてしまったことも有ってか、伊予に残る村上水軍関連の伝承は決して多くはないと言えそうです。 その中で、その勇敢さが伝承となり後世にも影響を残した田坂鑓之助について取り上げます。
鑓之助の伝承
来島村上氏の家臣田坂鑓之助貞縁について、以下のような伝承が残ります[1]。
来島村上氏の家臣に武勇の優れた男がおり、それが主君にも認められ、「鑓之助」の名を与えられたといいます。 これが田坂鑓之助貞縁です。
ある時、帆別銭を払わずに通行しようとする武士の一団による海の関所破りが発生します。 これを小早に乗り追いかけたのが鑓之助、相手の船へと追いつき帆別銭の支払いを拒む武士たちの半ばを討取ります。 そのうち桜井浜に船は流れ着き、戦いが続いたものの陸上では多勢に無勢となり、ついに鑓之助は討たれ、首を侍たちの国元へ持ち帰られてしまいます。
鑓之助を討ち、生きて戻った侍たちはそれが卑怯な振る舞いであるとして、領主の佐伯氏から追放されました。 また、里人の手により鑓之助は葬られ、後に江口八幡として祀られたとのことです。
このように鑓之助の武勇とその最期を伝えるものとなっています。
若干これを史実よりに解釈すると、佐伯氏の配下、即ち豊後大友氏に関連する船との争いであったということになり、村上水軍とは何らかの対立関係が生じていたということでしょう。
一方、後日譚として鑓之助には男子が無く、その一人娘が大友氏の家臣、本田治部少輔鎮秀に嫁いだとするものがあります。 鎮秀と死別後に娘を連れて鑓之助の下へ帰り、その娘を鳥生村の野間五郎右衛門へ嫁がせた、とするものです[2]。
久留島藩田坂氏
ところで、その最期が伝承にあるようなものであったかは別として、実際に田坂鑓之助なる人物が存在したことは確かなようです。 関が原の戦い後に豊後玖珠森に移封された来島氏の家臣に田坂氏が続いています。 元は村上氏であり、また鑓之助には男子がなかったことから二神修理進の兄が田坂氏を継いで鑓之助貞興を名乗り、さらにその子が幸長であるとのことです[3]。 幸長の名乗りは、得居通幸の偏諱であると思われますので、改名の可能性はあるにせよ幸長の生まれは遅くとも天正の初め頃と言えるでしょう。
村上海賊様々な行方 [史料紹介]
三島村上水軍各家は近世に入り、豊後森藩主、萩藩船手組頭、萩藩船手組としてそれぞれ続いていきました。
その他庶流の各家もその例として福岡藩黒田家中の「野島(能島)衆」を取り上げましたが、この他にも各地に村上水軍の末裔を名乗り近世を過ごした人々が確認できます。 これら村上氏と系譜的に関係のありそうな諸氏を備忘録的に紹介してみます(萩藩内の各家は除外しました)。
来島系
紀州藩村上氏(彦右衛門吉清系)
村上通康の子で通総の弟、彦右衛門吉清の系統です。 元は黒田氏に仕え、通総戦死後に来島家へ戻るも関が原合戦後の改易で福島正則家臣となり、更に正則の改易後は、大崎長行、真鍋貞成と共に紀州藩に召し出されています。
寛永15年に吉清は亡くなった後、家臣山野井五右衛門および鎌足八兵衛により「村上彦右衛門義清働私共覚候分書付上申事」が残されています[1]。
紀州藩村上氏(助右衛門景房系)
景房の祖父吉継は来島村上氏の重臣で、村上通総と袂を分かって以降は小早川家中にありましたが、隆景死後に景房は毛利家に移ります。 関が原合戦後は細川氏に仕え豊前国京都郡で1000石を与えられていたようです[2]。 その後、元和年間毛利氏に戻って船手組の一つを率いますが、旧主筋にあたる村上彦右衛門との関係からか紀州藩士となっています。
岡山藩村上氏
一度取り上げていますが、和気郡葛籠葛城主で通康弟筑前守の家系と伝えます。 筑前守吉賢、内蔵太夫吉高と続いて村上通総に与したため葛籠葛城を離れることとなり、来島村上氏、ついで関が原合戦後に加藤嘉明、明成父子、その改易後は岡山藩池田氏の下へと移っています。 来島氏の縁戚であることを意識していたらしく後年、久留島氏へと改めています[3]。
福岡藩下嶋氏
福岡藩下嶋氏も来島関係者でしょうか。 下嶋氏として次郎太夫[4]、十右衛門[5]の名前が見えますが、遡って永禄11(1567)年に道後で村上通康が亡くなった際、直前に来島親類衆の下嶋次郎左衛門が小早川隆景にその容態を伝え、また伊予国内に不案内な 毛利勢の案内を務めています[6]。 次郎太夫はこの次郎左衛門の縁者ではないでしょうか。
また、余談ですが分限帳の記載位置からは船手関係者らしき垣生太郎左衛門幸親[7]も伊予で河野氏の奉行人であった垣生氏であるかもしれません。
天正16年の高野山上蔵院宛宿坊証文 [史料紹介]
河野氏滅亡後の天正16(1588)年、河野氏が定めた高野山における伊予住人の宿坊、上蔵院に対して再度宿坊証文が書かれています[1]。 この宿坊証文は前年に亡くなった河野通直の慰霊を弔うために高野山へと登山した河野通直母とその一行が残したもので「高野山上蔵院文書」に含まれているものです。
天正16年の登山者たち
同じく「高野山上蔵院文書」に含まれる「河野家過去帳」[2]からは、その際に共に登山した多くの人々が旧主通直の慰霊だけではなく、縁者の供養や自身の逆修供養などを行っていることがわかります。
通直母も通直の供養塔を建てると共に、自身の逆修供養も行っており、今も河野氏の墓塔は奥の院に見ることができます。 ただし、当時は女人禁制の地であり、通直母自身が高野山内に入ることはなかったはずです。 また、時期のずれから同行者ではないと思われますが、直近にも多くの河野氏旧臣関係者の供養依頼がなされています。
定成隆氏は上蔵院文書について収録される各種文書の状況、背景も論じつつ、この証文については正文であろうとされています[3]。
宿坊証文とその解釈
この宿坊証文には通直母のほか河野氏の家臣団からも通直時代の重臣層として知られる平岡氏、垣生氏ら以下の13名が連署しています。
- 平岡太郎通賢
- 垣生肥前入道全休
- 垣生左京亮周由
- 松浦佐馬進通長
- 垣生孫三良盛継
- 向居三良兵衛尉経愛
- 高田小八通真
- 浅海源右衛門尉通毛
- 久保市右衛門尉信存
- 太内蔵人進信堅
- 杉原太良左衛門尉春良
- 戒能備前入道顕意
- 久津名新右衛門尉通保
能島分限帳「行方覚書」(下) [史料紹介]
引き続き能島村上氏の「能島家家頼分限帳」[1]から読み取れるものを見ていきます。
注目できる記事
来島村上氏との婚姻
系図上では武吉の妻として、前妻、後妻いずれも村上通康娘とされています[2]。 これに関連する記載が中間弥吉について「来嶋様より妙輪様御供仕候」、中間惣兵衛についても「来嶋様より後也、妙三様ニ御供仕候」と2ヶ所見られます。 これらから、武吉の前妻「妙輪様」、後妻「妙三様」が来島村上氏から来たと認識されていたことになります。
なお、来島村上氏との関係では高橋五藤右衛門が「右廣嶋引取、後来嶋左門様ニ居申候事」とあります。 後に久留島藩へと出仕したとも読めますが、左門を名乗る人物はむしろ久留島藩初代藩主長親の庶兄左門通則が知られますが、慶長5年に亡くなったと伝わります[3]。 同じく福島家中の村上彦右衛門吉清と勘違いしたのか、あるいは左門通則の後継者が福島家中に存在したのでしょうか。
田坂茂右衛門
中間弥五助は「伊与ニて首尾能、又 大方様へ御奉公仕候故、立身被仰付、田坂茂右衛門と申」とあります。 この「大方様」を西尾和美氏は河野通宣に嫁し、河野通直の生母である宍戸隆家娘と解釈され、弥五助を「大方」によって独自に取り立てられた河野氏家臣の存在例としてあげられています[4]。
しかし、この分限帳に現れる「大方様」に注目すると、この解釈についての疑問が生じます。 藤原弥助には「小田殿より大方様御供仕候、立身被仰付」とあり、弥助は小田氏から元吉へと嫁いだ「大方様」と共に能島へ来た後、「立身」したことがわかります。 また、既に述べたとおり分限帳の記載がほぼ天正末期以降、基本的には関が原合戦頃以降のものに限られる事を考えれば、弥五助の仕えた「大方」も元吉妻であると考えられます。 「伊与(予)ニて首尾能」とは、慶長5年の伊予での戦いにおける活躍を指しているものでしょう。
能島衆からの脱落
この「行衛覚書」からは、人々が様々な理由で能島村上氏を離れていく様が見て取れます。 暇を与えられ引っ越すものも多くいたようですが、「走り」すなわち逃げ去っていく者達の存在も少なくありません。
東右近助
分限帳の先頭に置かれ、家中でも高禄を食む東右近助ですが、血縁的に村上景広と近い関係にあった事もあってか屋代島を離れたようです。 右近助の項には関ヶ原合戦前後の状況だけではなく、長々とそして如何に不忠な人物であったかが書かれています。
「右近事六歳ニ被為成、御主ヲ捨て御家之大事有之、不忠不儀御家中無隠、他国迄も沙汰仕たるとのよしニ候」 とその行動を激しく非難し、その逃亡前後の状況についても 「右近丑ノ歳七月末走り申候前ニ村上八郎左衛門(景広)殿御立退、無程右近走り申候」 とあることから、右近助逃亡の直前に毛利家中を離れた村上景広をも暗に非難していると取れるかもしれません。
景広が慶長6年4月には毛利氏を離れていたことは、乃美景継の起請文[5]から確認ができますので、その後、景広からの勧誘が起こったものでしょうか。 その後の東右近についてはなぜか景広の子景則と誤認されている節があるのですが、熊本藩士として東右近大夫から続いたとする村上孫四郎家がこの家系でしょうか[7]。
村上四兵衛
80石取りと分限帳の中では東右近助、村上左馬助、友田次兵衛に次ぐ給地を持つ人物です。 四兵衛は能島衆が屋代島へと移ったのち、安下庄から「あたけと申大船」へ武具や馬具などを詰み、その他数艘の船で縁者30人程と逃げ、近年戦ったばかりの伊予の加藤嘉明を頼ったとしています。 四兵衛は1000石で、残りの者は100石で召し抱えられるも3年後、正月の祝いの帰りに酒盛中に船が転覆し、誰も助からなかったと伝え、それを「行衛覚書」では「天命至極」と糾弾しています。
能島分限帳「行方覚書」(上) [史料紹介]
「宮窪村上文書」の中にはひとつの「分限帳」[1]が含まれています。 「宮窪村上文書」は基本的に村上一学家、つまり景親の系譜に属する文書が中心ですが、この分限帳は本家元吉の家臣団についてのものと思われます。 また、単なる分限帳ではなく、その後の家臣団の行方を記した「覚書」としての性質ももつものです。
「能島家家頼分限帳」
この「分限帳」の構成はまず大きく二つに分けられます。 最初が東右近に始まる能島村上氏の分限帳、そして末尾に記された関が原合戦以降の経緯を記した部分です。
また、分限帳部分は、人名、禄高の記載に対し、その人物のその後や特筆すべき事項を記すという形が取られています。 さらに、この分限帳部分も、先頭の給人44人、その後に続く「小給人」の項、さらに中間として姓を持たぬ人々が記されます。
以下、慶長初期以降と思われる分限帳の成立時期に関しては「分限帳」、竹原崩れ以降の事跡を記した箇所については「行方覚書」として取り上げます。
数値でみる分限帳
まずはこの分限帳を数値的に見てみます。 掲載されている人名を、分限帳の記載を参考に分類してみます。
まず、途中に「四拾四人之外小給人と申ハ漕手ニも懸り陸ニてハ弓靭腰ニ付飛脚役状持廻り」とあり、名字を持つ下級の侍を小給人と指すようです。 ここに属する101名のうち、2名については「跡」が付されており、分限帳作成時には当該給地は該当する給人が不在だったようです。 また、中間を記載したその後に姓を持つ5名が記されており、単なる追記なのかあるいは彼らの扱いはまた別であったとも考えられます。
この小給人より上位に位置する人たちをここでは給人として扱うことにします。 先の記述の通り、44人という認識に対し、侍のほか、大龍寺15石を含むとこの数値と一致します。 集計ではこの他に便宜上、「武吉隠居分」50石、「景親様船懸」76石余を含めました。
中間については、中間〜と記され、姓を持たない者たちであるようです。 ただし、これらの内から後に「立身被仰付」と書かれ、姓を与えられた者も散見されます。
| 分類 | 人数 | 石高計 | 平均 | 最低 | 最高 |
| 給人 | 46 | 1766.6 | 38.4 | 20 | 101 |
| 小給人 | 101 | 1203.5 | 11.9 | 5 | 25 |
| 中間 | 22 | 191 | 8.7 | 7 | 10 |
| 合計 | 169 | 3161.1 | 18.7 |
給人の最低値から大龍寺15石は除外しました。 結果概ね、給人は20石以上、小給人は10〜20石、中間は10石以下という基準がこの時点では存在したようです。
成立まで
ここまで分限帳として紹介してきましたが、実際には現状のこの文書はその先頭にも記されているとおり「行衛(方)覚書」という性質の方が強いものとなっています。 結論としては慶長初期の「分限帳」に対し、寛永年間(までの間に)、家中の誰かが「行衛覚書」として成立させたものと言えるでしょう。
先に見た通り、家臣団へ合計3100石余りの給付がなされており、その他、給銀、給米を受ける者たちの存在が示されています。 防長移封直後、屋代島の能島村上氏1500石取りであり、また、この分限帳末尾に友田次兵衛が25石、江師宇兵衛が20石となったと記されており、これらは分限帳本文での給地82石余、41石のそれぞれ半分以下です。
「座配書立」に見る小早川隆景家臣 裳懸氏の系譜 [史料紹介]
小早川文書「座配書立」は一部が年欠となっているのですが、これについての考察がなされた論文について木下和司氏よりご教示をいただいておりました。 これを参考に裳懸氏の状況を再確認してみることにします。
小早川文書「座配書立」の並べ替え
小早川氏の家臣団構成を確認する上で、小早川文書に含まれている「座配書立」[1]に現れる人名はおおいに参考になります。
村井良介氏の「安芸国衆小早川氏「家中」の構成とその特質」[2]ではこれに含まれる年欠史料をその内容からその年代順を推定されています。 村井氏はこの史料に含まれる19通の書立について、それぞれに現れる人名の相関関係と、特定できる人物の名乗りの変化から、その正しい年代順での並べ替えを試みています。 また、その内容から内2通については同年のものが別文書に分れたものとして合計18通分の順序を下記のように示されました (ここで、AからSは元史料における提示順となります)。
表1 村井氏による推定(可能性のある年次は筆者追記)
| 書立 | 年次 | 推定 |
| A | 永禄2年 | |
| B | 永禄4年 | |
| D | 年欠 | 永禄5〜9年? |
| E | 年欠 | 永禄6〜10年? |
| C | 永禄11年 | |
| F | 年欠 | 永禄12〜元亀4年? |
| M | 年欠 | 永禄13〜天正2年? |
| L | 年欠 | 元亀2〜天正3年? |
| H | 天正4年 | |
| I | 天正5年 | |
| J | 天正6年 | |
| N | 天正7年 | |
| K | 年欠 | 天正8〜9年? |
| O | 天正10年 | |
| P(G) | 天正11年 | |
| Q | 天正12年 | |
| R | 天正13年 | |
| S | 天正14年 |
裳懸氏の場合
この再構成された史料の内容を裳懸氏分についてみてみます。
裳懸氏については、合計9つの名前が現れますが、これをおよその推定により分別して示します。 ★つきは比定の材料が不十分であることを示します。
表2 「座配書立」における裳懸氏
| ABDECFMLHIJNKOPQRS | |
| 裳懸与次 | A_________________ |
| 裳懸河内守 | _B________________ |
| 裳懸(殿) | ___E______________ |
| 裳懸新四郎 | _____F____________★ |
| 裳懸六郎 | ___E______________ |
| 裳懸新衛門尉 | ____C_____________ |
| 裳懸刑部丞 | _____F____________★ |
| 裳懸(殿) | ______MLHI_NK__QR_ |
| 裳懸次郎四郎 | ______MLH_________ |
| 裳懸采女允 | _________IJNK_P__S |
| 裳懸六郎 | _____________OPQRS |







