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隆景の諸大夫 [人物]

小早川隆景の諸大夫として名前の伝わる8名[1]から、残る粟屋左馬、井上左京の2名についてまとめて取り上げてみます。

粟屋、井上の2氏はいずれも隆景の小早川入嗣後に毛利氏から入り、隆景の側近として活躍した井上春忠、景貞親子、粟屋盛忠、景雄親子といった存在が知られています。 諸大夫成したと伝わる2名もこれらの人々に近い人物である可能性が高いということが考えられ、またそうであれば最も隆景の諸大夫として相応しい人物であるとも言えそうです。

井上左京

毛利氏の重臣であった井上氏は元就によって井上元兼とその一族が誅殺された後も一部は毛利氏家臣としてあるいは隆景に従う小早川氏家臣として残っています。 「侍付立」にも家老并に又右衛門、侍大将に伯耆守(春忠)と五郎兵衛(景貞)が見える他、多くの井上氏の名が見えます。

そうした中、左京を名乗る人物が毛利氏内部に確認できます。 天文末あるいは弘治年間の毛利氏家臣団の起請文には井上左京進あるいは左京亮の名が見えます[2]ので、誅殺を逃れた井上氏の中には左京を名乗る人物がいたことは確かなようです。

さらに『八箇国分限帳』[3]には40石あまりを給付される井上左京助が存在しますので、これらが同一人物かどうかは不明ですが、左京を名乗る井上氏の系統が存在したことが確かめられます。 その給地が存在するのは安芸高田郡と周防熊毛郡であり、古くからの所領に加え新たに周防でも給付を受けたと考えてよさそうです。 ただ、『閥閲録』に系譜を伝える井上氏には左京を名乗る人物は見当たらず、『長陽重臣略系』[4]においても、この井上左京助について系図上の位置もその実名も見えません。

ここで長府藩の『藩中略譜』の井上氏[5]の系譜を確認すると井上春忠の子、景貞について左京進、従五位下、法名宗元と記されており、跡を継いだその弟、七郎右衛門が吉城(吉敷)に住したとしています。

ただし、慶長2年と見られる隆景書状[6]においても「井 五兵」と略されており、隆景の死後にも五郎兵衛との署名が見られる[7]など、景貞が左京を実際に名乗った様子は今のところ伺えません。

井上春忠、景貞親子もまた関が原の戦いの後に毛利氏を離れ[8]、『長陽重臣略系』の井上系図においては伊予の加藤嘉明に仕えたとしています。 同書は景貞を法名宗玄と記していますが、その跡は又右衛門元景が継いで秀元、後に秀就に仕えたとしています。 しかし、この系統も元景の子、就相の死で途絶えたようです。 この元景以降の事情については、広島藩浅野氏に仕えたとする元景の次子については触れられていないものの『閥閲録』井上源三郎[9]の記載からも確認できます。

粟屋左馬

残る一人、粟屋左馬については、今のところ確認した範囲で隆景の諸大夫となった人物を伝える史料を他にみつけられていません。 ただ、毛利氏家臣の粟屋氏の中には粟屋左馬の名乗りを確認できますのでこれをまず取り上げます。

粟屋氏で左馬の名乗りで知られるのは左馬允元方であるようです。

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