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長岡景則の進退 [史料紹介]

2015年3月21日から6月28日まで、東京都文京区の 永青文庫美術館企画展示「細川家起請文の世界」 が開催されています[1]。 この展示は前年に熊本大学附属図書館で開催された 『貴重資料展・公開講演会(永青文庫セミナー)「誓いを立てる武士たち-細川家血判起請文の世界-」』 の東京開催のような位置づけでしょうか。

タイトルの通り起請文を中心とした展示ですが、その展示物のひとつに長岡景則に関連したものがあると聞いたこともあり実際に展示を見てきました。 会場では多数の起請文や関連書状が展示された濃厚なものでしたが、ここではその展示内容から長岡景則に絞った紹介をしてみたいと思います。

長岡景則の伺書

現在永青文庫に伝来している起請文約270通のうち、その40%が忠興の死までに提出されたものであり、これは三斎の隠居領と熊本の本藩の間での対立が影響したものとの展示解説がありました。 この背景からこの展示が細川家に伝来する起請文を紹介するというものであるだけでなく、結果、八代と熊本の間の対立を読み解く意味を持つものと見る事もできそうです。

ここで取り上げる長岡景則が記した文書は起請文ではありません。 正保2(1645)年の細川三斎(忠興)の死後、三斎の家老を務めていた景則が沼田延之、丹羽亀之允に宛て、暇を願い出た伺書[2]となっており、ここでの起請文が殿様への忠誠を誓う文書であるとするならば逆の意味をもつものとも解釈できます。年次の記載はありませんが、その内容と7月の記載から三斎の死の翌年、正保3年に比定されているようです。 内容としては冒頭から自身が妙解院(細川忠利)には仕えなかった理由を述べ三斎への忠誠を示すものとなっており、中でも例えとして、忠興の家臣が草履取り一人となったとしても、その草履取りを自身が務める覚悟であったとまで記しています。

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長府椋梨氏の系譜 [史料紹介]

残る開催期間は本日1日となりましたが、3月15日までの間、下関市の長府博物館において、 下関市合併10周年記念企画展示「下関の毛利氏-元就庶子の系譜」 が開催されています。

主に現下関市の多くを所領とした長府毛利家の他、関わりの深い諸氏の史料が展示されていますが、この中に長府毛利家と関わりを持つ小早川一族椋梨氏に関連するものが含まれています。

椋梨又九郎と太郎衛門

これらは今回初めて公開されたもので下記の2点が該当します。

  • 小早川隆景書状 椋梨又九郎宛 天文24年4月28日付
  • 毛利秀元知行宛行状 椋梨太郎左衛門宛 慶長7年12月13日付

椋梨氏は小早川氏のうち、沼田新庄を領した有力庶家として続いて来ました。 その本家は萩藩士として続いた家と考えられますが、この辺りを含め、各椋梨氏との詳細な関係は現状不明なままといえそうです。 長府藩士にも椋梨氏がおり上記二通の文書はいずれもそこに関連したものと考えられます。

展示解説によれば、天文24年の書状は野間氏の城である矢野保木での合戦に際しての感状であるとのことでした。 また、太郎左衛門宛の宛行状については拾石を豊東郡内日郷において秀元が宛行したものとなっています。 この又九郎と太郎左衛門について考えてみます。

分限帳から

まず、長府藩の分限帳を確認してみます。 藩政初期の分限帳の記載を確認すると以下のようになります[1]。

分限帳年限   名前     禄高(石)
元和元(1615)以前椋梨作兵衛  80
        椋梨与次衛門 40
元和5(1619)  椋梨太郎左衛門40
寛永15(1638)  該当なし    
正保4(1644)  椋梨作兵衛  80
        椋梨与次衛門 50

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虫明の事など [史料紹介]

小早川氏庶流の一つに裳懸(掛)氏があることはなんどか紹介して来ました。 その中でこの「裳懸」を当時はどう読んだのか、という点が気にかかっていたのですが、やはりこれは「裳懸(掛)」と書いて「むしあけ(げ)」と読むべき、であるのではないか、と取れる史料を紹介いただいたのでこれに触れつつ裳懸氏の諸々を追記してみます。

「虫明」と「裳懸」

そもそも「むしあけ」とは漢字では虫明、となります。 一方、裳懸とは備前国邑久郡に裳懸庄がかつて成立しており、また、ほぼ同じ場所を虫明とも称するということのようです。 江戸時代には「虫明」として岡山藩の重臣伊木氏の支配下にあったようで、現在は岡山県瀬戸内市の一部です。 住所表記としては邑久町虫明となっていますが、公共施設類を見ても、虫明郵便局である他は市の出張所、小学校、JAなどは裳掛を用いています。 旧裳掛村は虫明村、福谷村を合併して成立[1]していますので、必ずしもこの二つの地名が一致する訳ではないようです。 なお、由来としては虫明は海に光る夜光虫の明かりから、との説があり、一方、裳懸についても菅原道真に関わる「裳掛の松」の伝承が存在する[2]ようで、いずれの成り立ちからみても興味深いものがあります。

この裳懸庄に地頭として小早川氏が関わりを持ち、恐らくはその庶流が現地に入ったことで裳懸氏を名乗ったようです。 この所領は少なくとも応永7(1400)年までは小早川家の下にあったと思われます[3]が、戦国期には現地と小早川氏との直接的な関わりは失われていたと考えられます。 裳懸氏自体は小早川氏の本領付近で活動を続けており、これを「もか(が)け」ではなく「むしあけ(げ)」と読んだのではないか、という点については以下の資料をみていきます。

『陰徳太平記』

証、というには弱いものですが、筆者が最初に「むしあけ」読みを確認したのは吉川系の軍記物である『陰徳太平記』[4]です。 この巻70「諸将四国渡海付処々合戦之事」[5]に、四国攻めに際して深手を負った人物に「裳掛(ムシアケ)主水正(モントノカミ)」とルビがふられています。 ここで紹介した早稲田大学所蔵本がいつ時点のものかは不明ですが、古くより(あるいは当初より)「むしあけ」と紹介されていることが確認できます。

「村山家檀那帳」

筆者が確認した2例目は時代的にはこれより遡り、また、同時代に記載されたと思われる資料で、これは以前も取り上げたものです。 伊勢御師村山氏が毛利領国を廻った際にまとめた天正9年の檀那帳[6]に小早川氏の本拠地高山の檀那として以下の人名が見えます。

  • むしあけ宋(采)女殿
  • 同 六郎殿
  • むしあけ殿やく人也、山ワき二郎衛門尉殿

これは名乗りから裳懸采女允景利、裳懸六郎盛聡の両名であると言えるでしょう。

裳懸氏略系図

裳懸河内守―新右衛門―弥左衛門盛聡(高山主水)
     ―采女允景利

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もうひとつの「河野家譜」 [史料紹介]

『河野家譜』と言えば、『予陽本』[1]と『築山本』[2]が著名ですが、これらの刊本を探している際に刊行されているもう一つの『河野家譜』に遭遇しました。 この『河野家譜』について、内容的にはほとんど伊予の戦国史とは関連が薄いこともあってか、これまであまり伊予関係の論考上でも取り上げられることがなかったようですので、ここで簡単に紹介してみます。

概略

この『河野家譜』[3]ですが、大聖寺藩に仕えた儒者河野春察(通英)の家系が伝えたものです(以下本項では『家譜』)。 簡単に言えば林羅山の高弟、河野春察の父祖を河野氏に求めており、庶流の通生の家系が伊予から中国に渡り、毛利氏に仕えた後に江戸に出たとするものです。

室町期の有力な河野氏庶流として知られる通生、勝生、明生、通吉の名前が歴代として現れますが、その活動地域を周防や安芸に求めていることや年代の不整合など気になる点も存在します。 その背景には春察が仕えた太田資宗との関わりが大きく影響しているのではないかと推測出来そうです。

資宗は徳川家光から『寛永諸家系図伝』の編纂を命じられており、その作業に資宗に仕えていた春察も加わっていたようです。 また、資宗の娘として稲葉正吉(稲葉正成子)室、一柳末礼室がいたとのことですので、春察が仕えた資宗は数少ない越智姓を名乗る大名家と縁戚関係にあったことになります。 春察がこの時期に数種の河野系図を目にしたことは間違いないのではないかと思われます。

林氏と河野氏

以下、この家譜がどのような歴史を描いているのか、独自の系譜を伝える部分の概要をみていきます。

通生

通直の子で林九郎、兵部少輔、河野を改め林と称する。 永享10(1438)年に生まれ、外祖父林壱岐守高生の養子となり林を名乗るも、父の親愛により家譜證文を授けられる。 応仁元年から文明5年まで洛中で活動し、文明13(1481)年7月3日没、44歳、法名は道林長松院。

この家譜では河野本家からの別れを通直(教通のことと思われます)の子とする通生においていますが、通説に従えば通生は教通の弟としてその守護権力を支えた人物として知られます。 また細川氏との抗争においても高名が伝わりますが、そのような事績はこの『家譜』では触れられていません。

通勝

通生の子で林三郎、兵部少輔、壱岐守、初め勝生。 寛正6(1465)年正月朔日生まれ、明応2(1493)年に弾正少弼通直との間に故あって周防に出奔。 永正4(1507)年8月山口で没、43歳。

その妹に三浦越前守室となった女性がいたとしていますが、この三浦氏は大内氏配下の周防三浦氏を指しているものでしょうか。

明応年間であれば河野氏の当主は教通のはずで、仮に生まれていたとしても幼年で家督継承前の弾正少弼通直が現れるのは不自然です。 周防に逃れたとする以降については、享禄3(1530)年に弾正少弼通直に反逆し周防へと逃れた重見通種の所伝を想起させます。 弾正少弼通直の名前がここに現れる背景はまさにここにあるのでしょう。

周防~毛利氏家臣として

以降、中国地方での活動を伝えます。

通明

通勝の子で初め明生。九郎、民部大輔、壱岐守。 文亀2(1502)年に山口生まれ、大内義隆に属し、防州若山城に在城。 天文21(1553)年、毛利元就に属し、厳島合戦の後は11日に山口へと進軍し大内義長の兵と戦い討死。 享年54歳、法名道傳。

ここにも重見通種の所伝と重なる部分が見えています。 若山城は陶晴賢の居城であり、通種についても若山城滞在が伝わります。 その通明が唐突に毛利氏へと属しているのは、主殺しとして忌避される晴賢に従っていたと書くことを躊躇した為ではないでしょうか。 弘治元年の山口侵攻も事実に反しますが、通明の死に場所を求めての辻褄合わせにも見えてきます。

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村上海賊様々な行方 [史料紹介]

三島村上水軍各家は近世に入り、豊後森藩主、萩藩船手組頭、萩藩船手組としてそれぞれ続いていきました。

その他庶流の各家もその例として福岡藩黒田家中の「野島(能島)衆」を取り上げましたが、この他にも各地に村上水軍の末裔を名乗り近世を過ごした人々が確認できます。 これら村上氏と系譜的に関係のありそうな諸氏を備忘録的に紹介してみます(萩藩内の各家は除外しました)。

来島系

紀州藩村上氏(彦右衛門吉清系)

村上通康の子で通総の弟、彦右衛門吉清の系統です。 元は黒田氏に仕え、通総戦死後に来島家へ戻るも関が原合戦後の改易で福島正則家臣となり、更に正則の改易後は、大崎長行、真鍋貞成と共に紀州藩に召し出されています。

寛永15年に吉清は亡くなった後、家臣山野井五右衛門および鎌足八兵衛により「村上彦右衛門義清働私共覚候分書付上申事」が残されています[1]。

紀州藩村上氏(助右衛門景房系)

景房の祖父吉継は来島村上氏の重臣で、村上通総と袂を分かって以降は小早川家中にありましたが、隆景死後に景房は毛利家に移ります。 関が原合戦後は細川氏に仕え豊前国京都郡で1000石を与えられていたようです[2]。 その後、元和年間毛利氏に戻って船手組の一つを率いますが、旧主筋にあたる村上彦右衛門との関係からか紀州藩士となっています。

岡山藩村上氏

一度取り上げていますが、和気郡葛籠葛城主で通康弟筑前守の家系と伝えます。 筑前守吉賢、内蔵太夫吉高と続いて村上通総に与したため葛籠葛城を離れることとなり、来島村上氏、ついで関が原合戦後に加藤嘉明、明成父子、その改易後は岡山藩池田氏の下へと移っています。 来島氏の縁戚であることを意識していたらしく後年、久留島氏へと改めています[3]。

福岡藩下嶋氏

福岡藩下嶋氏も来島関係者でしょうか。 下嶋氏として次郎太夫[4]、十右衛門[5]の名前が見えますが、遡って永禄11(1567)年に道後で村上通康が亡くなった際、直前に来島親類衆の下嶋次郎左衛門が小早川隆景にその容態を伝え、また伊予国内に不案内な 毛利勢の案内を務めています[6]。 次郎太夫はこの次郎左衛門の縁者ではないでしょうか。

また、余談ですが分限帳の記載位置からは船手関係者らしき垣生太郎左衛門幸親[7]も伊予で河野氏の奉行人であった垣生氏であるかもしれません。

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天正16年の高野山上蔵院宛宿坊証文 [史料紹介]

河野氏滅亡後の天正16(1588)年、河野氏が定めた高野山における伊予住人の宿坊、上蔵院に対して再度宿坊証文が書かれています[1]。 この宿坊証文は前年に亡くなった河野通直の慰霊を弔うために高野山へと登山した河野通直母とその一行が残したもので「高野山上蔵院文書」に含まれているものです。

天正16年の登山者たち

同じく「高野山上蔵院文書」に含まれる「河野家過去帳」[2]からは、その際に共に登山した多くの人々が旧主通直の慰霊だけではなく、縁者の供養や自身の逆修供養などを行っていることがわかります。

通直母も通直の供養塔を建てると共に、自身の逆修供養も行っており、今も河野氏の墓塔は奥の院に見ることができます。 ただし、当時は女人禁制の地であり、通直母自身が高野山内に入ることはなかったはずです。 また、時期のずれから同行者ではないと思われますが、直近にも多くの河野氏旧臣関係者の供養依頼がなされています。

定成隆氏は上蔵院文書について収録される各種文書の状況、背景も論じつつ、この証文については正文であろうとされています[3]。

宿坊証文とその解釈

この宿坊証文には通直母のほか河野氏の家臣団からも通直時代の重臣層として知られる平岡氏、垣生氏ら以下の13名が連署しています。

  • 平岡太郎通賢
  • 垣生肥前入道全休
  • 垣生左京亮周由
  • 松浦佐馬進通長
  • 垣生孫三良盛継
  • 向居三良兵衛尉経愛
  • 高田小八通真
  • 浅海源右衛門尉通毛
  • 久保市右衛門尉信存
  • 太内蔵人進信堅
  • 杉原太良左衛門尉春良
  • 戒能備前入道顕意
  • 久津名新右衛門尉通保

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能島分限帳「行方覚書」(下) [史料紹介]

引き続き能島村上氏の「能島家家頼分限帳」[1]から読み取れるものを見ていきます。

注目できる記事

来島村上氏との婚姻

系図上では武吉の妻として、前妻、後妻いずれも村上通康娘とされています[2]。 これに関連する記載が中間弥吉について「来嶋様より妙輪様御供仕候」、中間惣兵衛についても「来嶋様より後也、妙三様ニ御供仕候」と2ヶ所見られます。 これらから、武吉の前妻「妙輪様」、後妻「妙三様」が来島村上氏から来たと認識されていたことになります。

なお、来島村上氏との関係では高橋五藤右衛門が「右廣嶋引取、後来嶋左門様ニ居申候事」とあります。 後に久留島藩へと出仕したとも読めますが、左門を名乗る人物はむしろ久留島藩初代藩主長親の庶兄左門通則が知られますが、慶長5年に亡くなったと伝わります[3]。 同じく福島家中の村上彦右衛門吉清と勘違いしたのか、あるいは左門通則の後継者が福島家中に存在したのでしょうか。

田坂茂右衛門

中間弥五助は「伊与ニて首尾能、又 大方様へ御奉公仕候故、立身被仰付、田坂茂右衛門と申」とあります。 この「大方様」を西尾和美氏は河野通宣に嫁し、河野通直の生母である宍戸隆家娘と解釈され、弥五助を「大方」によって独自に取り立てられた河野氏家臣の存在例としてあげられています[4]。

しかし、この分限帳に現れる「大方様」に注目すると、この解釈についての疑問が生じます。 藤原弥助には「小田殿より大方様御供仕候、立身被仰付」とあり、弥助は小田氏から元吉へと嫁いだ「大方様」と共に能島へ来た後、「立身」したことがわかります。 また、既に述べたとおり分限帳の記載がほぼ天正末期以降、基本的には関が原合戦頃以降のものに限られる事を考えれば、弥五助の仕えた「大方」も元吉妻であると考えられます。 「伊与(予)ニて首尾能」とは、慶長5年の伊予での戦いにおける活躍を指しているものでしょう。

能島衆からの脱落

この「行衛覚書」からは、人々が様々な理由で能島村上氏を離れていく様が見て取れます。 暇を与えられ引っ越すものも多くいたようですが、「走り」すなわち逃げ去っていく者達の存在も少なくありません。

東右近助

分限帳の先頭に置かれ、家中でも高禄を食む東右近助ですが、血縁的に村上景広と近い関係にあった事もあってか屋代島を離れたようです。 右近助の項には関ヶ原合戦前後の状況だけではなく、長々とそして如何に不忠な人物であったかが書かれています。

「右近事六歳ニ被為成、御主ヲ捨て御家之大事有之、不忠不儀御家中無隠、他国迄も沙汰仕たるとのよしニ候」 とその行動を激しく非難し、その逃亡前後の状況についても 「右近丑ノ歳七月末走り申候前ニ村上八郎左衛門(景広)殿御立退、無程右近走り申候」 とあることから、右近助逃亡の直前に毛利家中を離れた村上景広をも暗に非難していると取れるかもしれません。

景広が慶長6年4月には毛利氏を離れていたことは、乃美景継の起請文[5]から確認ができますので、その後、景広からの勧誘が起こったものでしょうか。 その後の東右近についてはなぜか景広の子景則と誤認されている節があるのですが、熊本藩士として東右近大夫から続いたとする村上孫四郎家がこの家系でしょうか[7]。

村上四兵衛

80石取りと分限帳の中では東右近助、村上左馬助、友田次兵衛に次ぐ給地を持つ人物です。 四兵衛は能島衆が屋代島へと移ったのち、安下庄から「あたけと申大船」へ武具や馬具などを詰み、その他数艘の船で縁者30人程と逃げ、近年戦ったばかりの伊予の加藤嘉明を頼ったとしています。 四兵衛は1000石で、残りの者は100石で召し抱えられるも3年後、正月の祝いの帰りに酒盛中に船が転覆し、誰も助からなかったと伝え、それを「行衛覚書」では「天命至極」と糾弾しています。

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能島分限帳「行方覚書」(上) [史料紹介]

「宮窪村上文書」の中にはひとつの「分限帳」[1]が含まれています。 「宮窪村上文書」は基本的に村上一学家、つまり景親の系譜に属する文書が中心ですが、この分限帳は本家元吉の家臣団についてのものと思われます。 また、単なる分限帳ではなく、その後の家臣団の行方を記した「覚書」としての性質ももつものです。

「能島家家頼分限帳」

この「分限帳」の構成はまず大きく二つに分けられます。 最初が東右近に始まる能島村上氏の分限帳、そして末尾に記された関が原合戦以降の経緯を記した部分です。

また、分限帳部分は、人名、禄高の記載に対し、その人物のその後や特筆すべき事項を記すという形が取られています。 さらに、この分限帳部分も、先頭の給人44人、その後に続く「小給人」の項、さらに中間として姓を持たぬ人々が記されます。

以下、慶長初期以降と思われる分限帳の成立時期に関しては「分限帳」、竹原崩れ以降の事跡を記した箇所については「行方覚書」として取り上げます。

数値でみる分限帳

まずはこの分限帳を数値的に見てみます。 掲載されている人名を、分限帳の記載を参考に分類してみます。

まず、途中に「四拾四人之外小給人と申ハ漕手ニも懸り陸ニてハ弓靭腰ニ付飛脚役状持廻り」とあり、名字を持つ下級の侍を小給人と指すようです。 ここに属する101名のうち、2名については「跡」が付されており、分限帳作成時には当該給地は該当する給人が不在だったようです。 また、中間を記載したその後に姓を持つ5名が記されており、単なる追記なのかあるいは彼らの扱いはまた別であったとも考えられます。

この小給人より上位に位置する人たちをここでは給人として扱うことにします。 先の記述の通り、44人という認識に対し、侍のほか、大龍寺15石を含むとこの数値と一致します。 集計ではこの他に便宜上、「武吉隠居分」50石、「景親様船懸」76石余を含めました。

中間については、中間〜と記され、姓を持たない者たちであるようです。 ただし、これらの内から後に「立身被仰付」と書かれ、姓を与えられた者も散見されます。

分類 人数石高計 平均最低最高
給人  461766.6 38.420101
小給人 1011203.5 11.9525
中間  22 191 8.7710
合計  1693161.1 18.7

給人の最低値から大龍寺15石は除外しました。 結果概ね、給人は20石以上、小給人は10〜20石、中間は10石以下という基準がこの時点では存在したようです。

成立まで

ここまで分限帳として紹介してきましたが、実際には現状のこの文書はその先頭にも記されているとおり「行衛(方)覚書」という性質の方が強いものとなっています。 結論としては慶長初期の「分限帳」に対し、寛永年間(までの間に)、家中の誰かが「行衛覚書」として成立させたものと言えるでしょう。

先に見た通り、家臣団へ合計3100石余りの給付がなされており、その他、給銀、給米を受ける者たちの存在が示されています。 防長移封直後、屋代島の能島村上氏1500石取りであり、また、この分限帳末尾に友田次兵衛が25石、江師宇兵衛が20石となったと記されており、これらは分限帳本文での給地82石余、41石のそれぞれ半分以下です。

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「座配書立」に見る小早川隆景家臣 裳懸氏の系譜 [史料紹介]

小早川文書「座配書立」は一部が年欠となっているのですが、これについての考察がなされた論文について木下和司氏よりご教示をいただいておりました。 これを参考に裳懸氏の状況を再確認してみることにします。

小早川文書「座配書立」の並べ替え

小早川氏の家臣団構成を確認する上で、小早川文書に含まれている「座配書立」[1]に現れる人名はおおいに参考になります。

村井良介氏の「安芸国衆小早川氏「家中」の構成とその特質」[2]ではこれに含まれる年欠史料をその内容からその年代順を推定されています。 村井氏はこの史料に含まれる19通の書立について、それぞれに現れる人名の相関関係と、特定できる人物の名乗りの変化から、その正しい年代順での並べ替えを試みています。 また、その内容から内2通については同年のものが別文書に分れたものとして合計18通分の順序を下記のように示されました (ここで、AからSは元史料における提示順となります)。

表1 村井氏による推定(可能性のある年次は筆者追記)

書立年次推定
A永禄2年
B永禄4年
D年欠永禄5〜9年?
E年欠永禄6〜10年?
C永禄11年
F年欠永禄12〜元亀4年?
M年欠永禄13〜天正2年?
L年欠元亀2〜天正3年?
H天正4年
I天正5年
J天正6年
N天正7年
K年欠天正8〜9年?
O天正10年
P(G)天正11年
Q天正12年
R天正13年
S天正14年

裳懸氏の場合

この再構成された史料の内容を裳懸氏分についてみてみます。

裳懸氏については、合計9つの名前が現れますが、これをおよその推定により分別して示します。 ★つきは比定の材料が不十分であることを示します。

表2 「座配書立」における裳懸氏

      ABDECFMLHIJNKOPQRS
      
裳懸与次  A_________________
      
裳懸河内守 _B________________
裳懸(殿) ___E______________
      
裳懸新四郎 _____F____________★
      
裳懸六郎  ___E______________
裳懸新衛門尉____C_____________
裳懸刑部丞 _____F____________★
裳懸(殿) ______MLHI_NK__QR_
      
裳懸次郎四郎______MLH_________
裳懸采女允 _________IJNK_P__S
      
裳懸六郎  _____________OPQRS
      

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慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(3) [史料紹介]

引き続き小早川家の西生浦在番役を割り当てられた各武将の出自について九州関係者と不明な人物について、そして彼らのその後についてです。

九州出身者

名和氏

伯耆左兵衛は肥後の名和顕孝が先祖である名和長年に縁のある伯耆を姓として用いたもののようです。 顕孝の頃には名和氏は宇土城を本拠とし、宇土氏とも名乗っていたようです。

秀吉に降り、天正16(1588)年の肥後での国人一揆には上洛中であったこともあり参加していないものの、後に同じ肥後国人の城氏と共に、筑前の国人原田氏らとの間で替地を命ぜられています[1]。 このような経緯で隆景の指揮下に入った顕孝ですが北条攻めや文禄の役にも従っていることがわかります[2]。

また、長良とも名乗ったようで「乃美文書」に小早川景俊宛の彼の起請文が残されています[3]。 兵法の伝授を伝える起請文のようですので、左兵衛は軍学にも長けていたものでしょうか。 ただ、宛所の景俊は一般に伝わる小早川氏には見られない名です。 秀俊が小早川氏入嗣時に一時景俊を名乗ったのかもしれませんが、これが乃美氏の下に伝わることと合わせて不明なところです。

天正3年の島津家久の上洛を記した『中書家久公御上京日記』には、京での様々な場面に度々「宇土殿」の名前が見えるようですが、これも名和顕孝と考えられているようです[4]。

問註所氏

問註所(翻刻では門住所)氏は大友氏に従った筑後の有力国人として知られる存在です。

問註所統景は九州国分の後は隆景の下に置かれ、文禄元年に朝鮮の地で討ち死にしています。 小兵衛の名は統景の孫で立花家に仕えた康辰として見えますが、年代的に符合しませんので、統景の子で康辰の父でもあり、後に立花宗茂に仕えた三郎兵衛政連を指すのではないでしょうか[5]。

黒木氏

黒木氏もまた筑後の有力国人です。 大友氏を背き、竜造寺氏についた家永は大友氏の攻撃を受けて敗死していますが、その子延実が隆景に仕えたということです。 このことから与兵衛尉は延実かその近親者でしょう。

杉氏

各隊の指揮官のさらに倍近い給地を得ていることが推測される杉太郎兵衛尉については、はっきりしたものが見えません。 その所領の大きさから、所領安堵を受けた在地の国人であることは確かでしょうが、各隊の指揮官に選ばれているのがいずれも毛利氏、小早川氏と関係の深い家臣であるところを考慮すると、毛利氏の家臣筋ではなく、九州在地の国人が所領安堵されたものと考えるのがよいのかもしれません。

遠賀川流域には杉太郎兵衛重緒という武将が鎌倉初期にいたと伝わっており[6]、この杉氏は大内一族とは別の杉氏のようですが、この系統が代々杉太郎兵衛を名乗って続いていた可能性はあるのではないでしょうか。

一方、後に小早川家から村上景房や曽根景房らと共に毛利家臣となったと思われる「杉帯」なる人物の存在が確認できる[7]ことから、毛利氏につながる杉氏が小早川家中に居たとも思われます。

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