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田坂鑓之助のブランド [人物]

能島、来島の両村上氏が共に伊予を離れてしまったことも有ってか、伊予に残る村上水軍関連の伝承は決して多くはないと言えそうです。 その中で、その勇敢さが伝承となり後世にも影響を残した田坂鑓之助について取り上げます。

鑓之助の伝承

来島村上氏の家臣田坂鑓之助貞縁について、以下のような伝承が残ります[1]。

来島村上氏の家臣に武勇の優れた男がおり、それが主君にも認められ、「鑓之助」の名を与えられたといいます。 これが田坂鑓之助貞縁です。

ある時、帆別銭を払わずに通行しようとする武士の一団による海の関所破りが発生します。 これを小早に乗り追いかけたのが鑓之助、相手の船へと追いつき帆別銭の支払いを拒む武士たちの半ばを討取ります。 そのうち桜井浜に船は流れ着き、戦いが続いたものの陸上では多勢に無勢となり、ついに鑓之助は討たれ、首を侍たちの国元へ持ち帰られてしまいます。

鑓之助を討ち、生きて戻った侍たちはそれが卑怯な振る舞いであるとして、領主の佐伯氏から追放されました。 また、里人の手により鑓之助は葬られ、後に江口八幡として祀られたとのことです。

このように鑓之助の武勇とその最期を伝えるものとなっています。

若干これを史実よりに解釈すると、佐伯氏の配下、即ち豊後大友氏に関連する船との争いであったということになり、村上水軍とは何らかの対立関係が生じていたということでしょう。

一方、後日譚として鑓之助には男子が無く、その一人娘が大友氏の家臣、本田治部少輔鎮秀に嫁いだとするものがあります。 鎮秀と死別後に娘を連れて鑓之助の下へ帰り、その娘を鳥生村の野間五郎右衛門へ嫁がせた、とするものです[2]。

久留島藩田坂氏

ところで、その最期が伝承にあるようなものであったかは別として、実際に田坂鑓之助なる人物が存在したことは確かなようです。 関が原の戦い後に豊後玖珠森に移封された来島氏の家臣に田坂氏が続いています。 元は村上氏であり、また鑓之助には男子がなかったことから二神修理進の兄が田坂氏を継いで鑓之助貞興を名乗り、さらにその子が幸長であるとのことです[3]。 幸長の名乗りは、得居通幸の偏諱であると思われますので、改名の可能性はあるにせよ幸長の生まれは遅くとも天正の初め頃と言えるでしょう。

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包久氏再考 [人物]

小早川氏庶流のひとつである包久氏については 何度か 取り 上げ ました が、いくつかの補完史料から再度まとめてみたいと思います。

小早川時代

小早川家臣時代の包久氏について、簡単に確認してみます。 儀礼上の観点から本家筋は包久左馬―弥七郎―内蔵丞と考えられます[1][2]。 出現時期から弥七郎―内蔵丞は同一人物であり、左馬助と親子関係を想定します。

軍事面では少輔五郎(宮内少輔)景勝の姿が見えますが[3]、活動時期が左馬助、弥七郎の出現時期と重なることから、彼らとは別人と考えられます。

また、隆景末期の奉行人、次郎兵衛景相、「瀬戸」の城主として包久因幡守、この他、包久又七郎、包新、包弘などが史料上に散見されますが、相互の系譜上の位置など詳細不明です。

関が原前後

慶長4(1599)年頃が想定される毛利氏の分限帳では、包久氏では内蔵丞、弥七郎、次郎兵衛が確認できます[4]が、関が原の合戦では、包久氏について、2名の動向を確認することができます。

一人は戦後の慶長5年10月15日に、横山伝兵衛尉へ起請文[5]を書いている「包左」ですが、永禄年間に見える名乗りを継いだ包久左馬助と思われ、内蔵丞あるいは次郎兵衛のいずれかが名乗りを変えたものではないでしょうか。 その起請文の内容は伝兵衛尉が「手柄を返す」事を讃え、今後も兄弟以上に大事に扱うと約したものです。 この「手柄」とは9月23日付の毛利秀元感状[6]にある美濃、伊勢での戦功でしょうか。 この感状の末尾に

猶於国本可加褒美者也

と記されており、合戦の敗北とその後の毛利氏への処遇から、恩賞の約を履行できない事態への対応とみられます。

もう一名は「野間内海合戦首注文」[7]に現れる包久弥三郎です。 尾張国野間内海付近での合戦について、毛利氏に残る記録では乃美兵部允(景継)、村上八郎左衛門(景広)がそれぞれ小早川、村上系の水軍の指揮を取っていたことがわかります。

この弥三郎は先の分限帳にも現れず不明な存在ですが、水軍を率いていることから、宮内少輔景勝との関係が疑われます。 弥三郎の名は後年の史料から意外な形でみることになります。

関が原以降

関が原合戦以降、包久氏の名が毛利本家内で見られることはほぼなくなりますが、包久内蔵丞は細川氏への下へ移った形跡が残ります[8]。 村上氏、乃美氏の縁戚関係からみて、包久内蔵丞、乃美主殿、村上助右衛門らは皆、景広と同時かその後の誘いを受けて、細川氏へと移ったものでしょう。 長府藩包久氏の伝える系譜では、内蔵丞は慶長6年に豊前宮熊で亡くなったと伝えます[9]。 そしてこれ以降、重用された景広、景則親子、乃美景嘉らとは異なり、細川家中でも包久氏の存在は確認できなくなるように思われます。

黒田氏家臣として

一方、福岡藩黒田氏家臣として一時期包久氏の姿を確認できます。 「元和初年人数付」[10]では吉田宮内組で包久藤兵衛が200石、高原二郎兵衛ら船手関係者と思われる中に包久弥三郎が100石と記されています。 元和9年の分限帳においては吉田宮内組に包「文」藤兵衛が200石とありますが、もう一つの元和9年分限帳では包久氏の名はありません[11]。

逆にこれ以前の分限帳に名前は見えず、黒田氏へいつ頃仕えたのかは不明ですが、他の史料から黒田家中での包久氏の存在は慶長年間に溯ることが可能です。

慶長5年に伊勢へと進出していた包久弥三郎ですが、彼の名前が景勝であること、そして別の一面を持っていることが「麻生家文書」に含まれる文書からわかります。

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井原村の宍戸玄翁とその娘 [人物]

戦国時代、安芸宍戸氏に生まれた宍戸元秀は当主隆家の長子であり、毛利元就の外孫でもありながら、病弱であったとも、事情があり軟禁されていたとも現代には伝わり、ほとんど事績を残すことなく亡くなっていきました。

元秀については以前も一度 まとめました が、出家後名乗ったと思われる玄翁(玄能)の名前からその晩年と死後、そしてその娘についてを再度見てみます。

宍戸玄翁

安養院殿祖雲玄翁、これが慶長2(1597)年6月11日に亡くなった宍戸元秀の法名です[ 系図A ]。 同系図には安芸国井原村で亡くなり、その際に51歳であったと記されます。

先にも述べたとおり、事情については不明ながら廃嫡されたと伝わり、事実、実父隆家の死後も家督を継ぐことなく亡くなったのは確かなようです。 天正末年頃の毛利家の分限帳においても、「隠居領」として870石が記されています[1]。

一方、現在のところ一次史料上においては、いくつかの寺社との関わりが確認されるのみの存在ではないかと思われます[2]。

安芸高田郡井原村ではその地名から高氏の一族が井原氏を名乗り、室町期以降勢力を伸ばしました。 同分限帳では既に井原氏は高田郡内の所領をほとんど失っており、井原村は毛利氏の直轄地であったようです[3]。 またこれは広島築城以後のものと考えられるため、この時点での元秀の居所も井原村である可能性は高いと思うのですが、玄翁名での厳島神社への寄進打渡状[4]から、遅くとも文禄年間には井原村へ居住していたものと考えられます。

玄翁の眠る寺

系図には元秀がどこで弔われたのかについては何も示されていません。 いくつかの材料からこれを検証してみます。

安養院

まず、元秀の法名の院殿号である安養院の名前は、毛利氏に関連して2つ、その存在を確認できます。

一つは、高野山の宿坊安養院であり、ここが毛利氏と関係を持っていますが、宍戸氏がどのように関わりを持っていたのかは未確認です。

もう一つが現在も広島に残る寺院、安養院です。 福島正則によって城下内で現在の比治山下へと移転したと思われ、明治に入って隣接する多聞院と合併し、名前が残る形となったようです。

広島藩により編纂された江戸時代の地誌『芸藩通志』には安養院について下記のように見えます[5]。

多聞院の上にあり、如意山歓喜寺と号す。
開基詳かならず、寛文中の存慶を初代とす、
境内金比羅社あり、寺門の内、偃松老樹あり

かつての安養院には頼山陽の父頼春水や叔父頼杏坪などの墓があり、これは今も残りますが、宍戸元秀の存在は見えません。 なお、この頼杏坪が『芸藩通志』編纂者の一人でもあります。

元は毛利氏縁で吉田郡山あった安養院[6]が広島築城後に広島城下へ移転したものとも思われるため、元秀との関係を強く考えられる訳ではありません。

高源寺

一方、玄翁が亡くなったと伝わる井原において、その記録がないものか確認すると意外にもその墓についての伝承まで確認することができました。

先と同じく『芸藩通志』では以下の記述をみつけることができます。

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宍戸善左衛門の痕跡(その2) [人物]

宍戸景好とその周辺の人物については、これまでも 確認できた史料 を取り上げてきましたが、さらにいくつかのものでの記載を取り上げてみます。 今回はともに善左衛門を名乗った景好、元真に関するものです。

景好

まず、親の善左衛門景好です。

東京市史稿 皇城編』[1]には江戸城築城に関する諸藩の史料が掲載されています。 そのうちの毛利氏の関連史料の「江戸御普請組帳」[2]から、これに参加した毛利氏家臣の禄高が判明します。 この中に宍戸善右衛門とありますが、前後の関係からも善左衛門を指しているものと思われます。 その禄高は740石であるようです。 慶長10年の段階での740石という処遇は慶長4年頃と思われる分限帳で700石余である[3]ことから、移封時に大幅に所領を削減された多くの藩士と比較して厚遇されている部類とは言えそうです。

この組帳は慶長10年12月13日付けであり、同年に起きた熊谷元直、天野元信らの誅殺を受けてまとめられた藩主親子への起請文がこれと前後してまとめられています[4]。 益田父子と、熊谷、天野両氏との間の調停に宍戸善左衛門もあたっていたことは 以前取り上げています が、その誅殺後に組の構成も変わったであろうことも考えられ、普請帳での組の構成からはそのあたりの背景事情は見えません。

善左衛門は兄の(宍戸)元続の組に属しており、同じ組内に同じく兄の粟屋孝春の名前も見えています。 この他、同じ組の内藤久太郎は兄元盛の子、後の孫兵衛元珍でしょうか。 起請文でも内藤修理の名は見えず、内藤久太郎の名が見えることから元盛は既に隠居していたものでしょうか。

なお、景好については『広島県史 資料編』に掲載の伊勢御師村山氏の「檀那帳」[5]では「郡山之分」に現れる宍戸但馬守を景好と比定していますが、年代的にも毛利氏の譜代家臣化していた宍戸但馬守元親であろうと思われます[6]。

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織田信長の娘の正体 [人物]

  • 第2版 2012/1/22 杉四郎兵衛について「八箇国分限帳」の内容について言及

前回に引き続いて、織田信長娘と伝わる宍戸元続の妻の正体として見出された内藤氏の娘とその周辺について、『西国の権力と戦乱』から西尾和美先生の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」[1]をベースに取り上げていきたいと思います。

「司箭伝 付宍戸元続室家之弁」

これは山口県文書館所蔵の文書であり[2]、江戸時代に編まれたと思われる「司箭伝」「司箭伝弁疑」「宍戸備前守元続君[永禄六ノ生]之始之御内室之事」から構成されているとのことです。 宍戸司箭についてもどのように記されたのか興味深い史料ですが、あくまで最後の一編が今回の話題に関するものとなります。 その内容は、当時知られた情報から宍戸元続の婚姻についてまとめたものとなっているようですが、江戸時代、既に宍戸氏の系図に記された内容に疑問、興味を持ち、精査した人物が存在した、ということも大変面白いものです。

西尾先生の論文には、全文の翻刻が掲載されていますが、ここでは概要を説明して行きます。 これによると当時、系図上、信長娘と宍戸元続の縁組について以下のような伝説が伝わっていたとのことです。

内藤左京某ノ姉妹ニ而

輝元公御養女、織田城介信忠[信長嫡子也]之嫡於次丸へ御縁談、於次丸卒去之後元続君へ入輿後離縁也、在京終身ト云々

このように同誌は、その伝承のうち於次丸を信忠嫡子とする誤りを指摘し、これは丹波中納言秀勝に対して輝元との縁談が発生したものを指しており、信長の(子の)嫁に当たるものであろうと、的確な指摘がなされていることがわかります。

また、於次丸との縁組という視点では、

輝元公ノ御母妙寿様ノ御弟内藤少輔七郎元種女ニテ、輝元公御従弟なるを御養女ニして遣ハさる処ニ~(中略)~古き系図ニも元続君ノ御室ハ内藤少輔七郎元種女又口羽通良女とあり~(以下略)

という形で、やはり内藤元種の娘が輝元養女として羽柴秀勝へと嫁いだ後に宍戸元続へと嫁いだことが掲載されているとのことです。 また、さらには元倶の妻となったこの元続娘(松崎)は寛永3年に38歳で亡くなったと伝わることから、天正17年の生まれとなり、前年の輝元上洛で成立した婚姻ではないか、としています。

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「霧の墓」-織田信長の娘- [人物]

以前にも少し触れましたが、福永タミ子氏が書かれた小説『霧の墓』[1]は、宍戸氏にゆかりのある人々が登場する短編集となっています。 全てが歴史小説という訳ではなく、その中のいくつかの作品には古文書に興味を持ち甲立を訪れたりといった行動を取る現代の女性が現れますが、三丘に育ったと思しきその女性は、著者の姿を投影したものということになるのでしょうか。 表題作である「霧の墓」に登場する「織田信長の娘」については以前から気になっていたのですが、この謎について紹介してみたいと思います。

「霧の墓」

タイトルである「霧の墓」とは、この短編の主人公である女性の墓を示しています。 その女性は、宍戸元続の最初の妻で織田信長の娘と伝わる女性です。 これが少なくとも作者の作り話でないことは 「宍戸系図」[ 系図A ] の元続の項には「妻織田内大臣信長公女 生一女 後離縁」と記されていることから確かめられます。

上記の元続と信長女の間の娘の存在については右田毛利氏の系図からも存在を確認できます。 天野元政の子、毛利元倶に嫁いだ女性がこの「信長の孫娘」であり、右田毛利氏の系図は名を松崎と伝えます[ 系図H ]。

この元続に嫁いだ女性については織田氏に関する史料ではその存在を確認できないようです。 「霧の墓」の中ではこの信長の娘は、美濃の土豪に出自を持つ母から生まれたものとして描かれていますが、この部分については作者によるフィクションの部分でしょう。 物語の中では安芸に来てからは自分の居場所を失い、婚姻生活がうまく行かず離縁に至り、安国寺恵瓊の世話になったこの女性が三丘小松原で生涯を終えるまでが描かれています。

信長娘の墓

「織田信長の娘」についてはこれで終わらず、その墓についての話が今も伝わっています。 その存在は、「霧の墓」の結び近くで紹介されている『防長風土注進案』の内容から確認できます[2]。

その記述によれば、当時の毛利元倶の所領、三丘小松原村に墓があり、「元和4年10月14日に亡くなった蘭室宗□」のものであり、これは元倶妻の知光院(松崎)の母が元続と離縁後に娘の縁を頼ってこの地で亡くなり、建てられた墓であると伝わっているようです。

なお、この墓は今現在も三丘の地に於いて、何故か元倶の実父天野元政の墓と並んで残っています[3]。

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正岡休意と宮内休意(2) [人物]

伊予の関が原、刈屋口の戦いの前後に存在が確認出来る2人の「休意」のうち、今回は宮内休意を見て行きます。

刈屋口の戦い

宮内休意は、関が原の戦いの折、伊予に進攻した毛利軍が味方になることを要求する宍戸景世らの書状[1]において武井宗意と共にその宛先となっていることで知られる人物です。 残念ながら、この毛利軍からの書状に対して彼らがどのような態度を取ったのか、はっきりした記録はないようです。 景世らが同様の書状を他の河野旧臣にも送った可能性は当然考えられますので一概には言えないのでしょうが、武井、宮内の両人の動向が加藤領内での動静に大きな影響のある存在と認識されていたのかもしれません。

毛利軍からの誘いについて、宮内休意はこれに応じたようだと光成準治氏は書かれています[2]が、この点については後ほど取り上げみたいと思います。

武井宗意

武井宗意については土居聡朋氏によって詳しくまとめられています[3]。 それによれば、武井宗意は河野旧臣で元は武任氏を名乗り、通親、信通、貞通と続いていたようです。 河野氏の滅亡後、天正15年に父信通を亡くした貞通は剃髪して宗意と名乗ったとされます。 また伊予に所領を持った豊臣系大名の親交が知られ、戸田勝隆の代官職を務めたり、あるいは福島正則との関係も確認でき、後年にも会津転封後の加藤嘉明との音信が知られていることから、関が原の戦いに際しても毛利軍には味方しなかったのではないかとのことです。

宗意の事績としては加藤氏時代に行った松前での開拓により「宗意原(そいばら)」の地名が今もその名残を伝えている[4]ことや酒造業を営んでもいたとのことからも、河野氏滅亡後は純然たる武士として生きていたわけではなさそうです。 その後、宗意は宗意原に今も残る妙寛寺を創建し、墓も同寺に残っています[5]。 ただ、墓碑には延宝3(1675)年没とあるそうですがこれが事実であれば、天正15(1587)年には戸田勝隆の代官を務めている以上100歳を越える大往生であったことになるわけで、その真相はどのようなものでしょうか。

宮内休意

上記のように武井宗意については史料が多く残ることからこれまでも言及がなされてきました。 しかし、宮内休意については河野旧臣であろうというのみで具体的な事績ははっきりしないようです。

休意についての記録としては「二神家文書」に含まれる「河野通直年忌覚書」にその名が残っています[6]。

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正岡休意と宮内休意(1) [人物]

伊予の関が原、刈屋口の戦いの前後に、河野氏関係者と見られる2人の「休意」を名乗る人物のわずかな記録が今に残っています。

特にわずかな数の文書に姿を見せるだけの正岡休意とその残された書状から見える当時の状況を見てみたいと思います。

正岡休意

そのうちの一人、正岡休意は河野旧臣と思われる人物です。 伊予の正岡一族の出身であると思われますが、現時点で具体的に比定されている人物がいるわけではないように思われます。

関が原後と思われる時期の村上景房宛の書状[1]では景房の祖父村上吉継を始め、村上水軍縁の人物の名前を挙げていることから、彼らとの間に親交が有った人物であることは確かです。 また、宍戸掃部こと景好の消息にも言及があることから景好とも面識があった可能性が高いと考えられます。

その景房宛の書状の内容には弱気な記述も見られ、休意本人はそう遠くない時期に訪れる自身の死を意識しているようです。 既に入道していることと合わせて既に老齢であったのかもしれません。

このほとんど政治的な意味合いの薄い書状が代々村上氏の許に残されていたのは休意が関が原の際の景房の伊予での働きに触れているからではないでしょうか。 実際、この後、休意がどのような生涯を終えたのかを知ることのできる史料は今のところ確認されていないのではないかと思われます。

この書状では「大坂町に去冬以来有之事候、此三四年無足之奉公故」との記述があり、また、前後の内容からはこれが関が原後であることは明らかです。 これは毛利氏の防長移封により備後三原、安芸竹原といった河野氏、小早川氏関連の地が福島氏の所領となったことか、あるいは伊予にあって西軍に与したため加藤氏の追求を受けたためと考えられます。

大坂では乃美甚右衛門[2]と会っているようですが、甚右衛門を介してその姉(妹)婿の景房についての近況を知ったのでしょうか。

三原にて

正岡休意についての詳細は不明であると述べましたが、生前の休意自身の活動は意外なところで確認することができます。

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宍戸景好の諸大夫成(2) [人物]

乃美景嘉益田景祥裳懸盛聡包久内蔵助らの紹介を挟んで、宍戸掃部景好の諸大夫成にも触れつつ、小早川隆景の諸大夫と伝わる武将たちについてまとめてみたいと思います。

8名の事績のまとめ

隆景の家臣として諸大夫成したと伝わる8人[1]のうち、多少なりともその事績を示す他の史料がある程度確認できたのが、粟屋左馬を除く7名となりました。 残る、粟屋左馬については慶長年間に毛利家臣として左馬允を名乗ったことが確認できる粟屋元信については小早川氏との強い関係を見いだせず、粟屋景雄らとの関係も考慮すべきように思われます。

名前  諱 他の名乗り 生没年      隆景死後        
益田修理景祥七内、河内守天正3?天正5?-寛永7毛利家臣、子孫は萩藩寄組
粟屋左馬不明不明
宍戸掃部景好、景世弥太郎、善左衛門、但馬守天正元?-元和9?寛永10?毛利家臣、子孫は彦根藩士
井上左京景貞五郎兵衛?-?毛利家臣→牢人、子は萩藩士、弟は長府藩士
乃美主殿景嘉、景尚?新四郎、主水?-寛永12毛利家臣→熊本藩士
包久内蔵助景真※弥四郎?、弥七郎?、蔵人大夫?、内蔵丞天文23?-慶長6?毛利家臣→関が原後に豊前小倉細川氏?、子孫は尾張藩、長府藩?
裳掛主水(高山)盛聡六郎、弥左衛門永禄10-寛永14毛利家臣?→牢人→寄合旗本高山氏
鵜飼隼人景一?-慶長4?毛利家臣→切腹、弟が萩藩士岩内氏→鵜飼氏

※他に景忠、景吉、景勝などの名が伝わりはっきりせず

比定し得る人物の名が上げられた7名の内、その死までを萩藩士として生きたのは元々毛利家中の有力国人を出自に持つ宍戸景好と益田景祥の2名のみであったことになります。 さらに、宍戸景好の系譜も後に萩藩を離れたため、直系が毛利氏の家臣として離れることなく長く続いたと言えるのは秀就生母の妹を妻に迎え、寄組益田家として続いた益田景祥の系譜のみでした。 他の6氏はいずれもある時期までには毛利氏を離れ、あるいは鵜飼隼人のように切腹し断絶が伝わるなど、様々な事情を抱えていたようです。

諸大夫成はあったのか

肝心な点はこの8名の諸大夫成の事実があったかどうかという点になりますが、このうち乃美氏については口宣案の文書が残されています。 乃美景尚宛の口宣案の日付は文禄5年5月24日となっており[2]、『寛政譜』において高山盛聡も慶長元年5月24日の叙任を伝えます[3]。 益田氏は諸大夫成を「侍付立」同様に隆景中納言叙任の際と伝えますが、具体的な日付は示されておらず、清華成との混同がないとは言い切れません。

隆景の清華成自体が文禄4年と文禄5年の2説があり、これについては矢部健太郎氏が、当時の状況から文禄4年の秀次に対する処分実施後の体制を固めるため、文禄5年の2月に前年8月に遡及して隆景を中納言に叙任、さらに、5月に清華成という経緯をたどったのではないかとして、また、文禄4年の隆景に関する記録から、文禄5年説の根拠を提示されています[4]。 これに沿った場合、乃美氏や高山氏が伝えるものとひとまずは整合します。

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隆景の諸大夫 [人物]

小早川隆景の諸大夫として名前の伝わる8名[1]から、残る粟屋左馬、井上左京の2名についてまとめて取り上げてみます。

粟屋、井上の2氏はいずれも隆景の小早川入嗣後に毛利氏から入り、隆景の側近として活躍した井上春忠、景貞親子、粟屋盛忠、景雄親子といった存在が知られています。 諸大夫成したと伝わる2名もこれらの人々に近い人物である可能性が高いということが考えられ、またそうであれば最も隆景の諸大夫として相応しい人物であるとも言えそうです。

井上左京

毛利氏の重臣であった井上氏は元就によって井上元兼とその一族が誅殺された後も一部は毛利氏家臣としてあるいは隆景に従う小早川氏家臣として残っています。 「侍付立」にも家老并に又右衛門、侍大将に伯耆守(春忠)と五郎兵衛(景貞)が見える他、多くの井上氏の名が見えます。

そうした中、左京を名乗る人物が毛利氏内部に確認できます。 天文末あるいは弘治年間の毛利氏家臣団の起請文には井上左京進あるいは左京亮の名が見えます[2]ので、誅殺を逃れた井上氏の中には左京を名乗る人物がいたことは確かなようです。

さらに『八箇国分限帳』[3]には40石あまりを給付される井上左京助が存在しますので、これらが同一人物かどうかは不明ですが、左京を名乗る井上氏の系統が存在したことが確かめられます。 その給地が存在するのは安芸高田郡と周防熊毛郡であり、古くからの所領に加え新たに周防でも給付を受けたと考えてよさそうです。 ただ、『閥閲録』に系譜を伝える井上氏には左京を名乗る人物は見当たらず、『長陽重臣略系』[4]においても、この井上左京助について系図上の位置もその実名も見えません。

ここで長府藩の『藩中略譜』の井上氏[5]の系譜を確認すると井上春忠の子、景貞について左京進、従五位下、法名宗元と記されており、跡を継いだその弟、七郎右衛門が吉城(吉敷)に住したとしています。

ただし、慶長2年と見られる隆景書状[6]においても「井 五兵」と略されており、隆景の死後にも五郎兵衛との署名が見られる[7]など、景貞が左京を実際に名乗った様子は今のところ伺えません。

井上春忠、景貞親子もまた関が原の戦いの後に毛利氏を離れ[8]、『長陽重臣略系』の井上系図においては伊予の加藤嘉明に仕えたとしています。 同書は景貞を法名宗玄と記していますが、その跡は又右衛門元景が継いで秀元、後に秀就に仕えたとしています。 しかし、この系統も元景の子、就相の死で途絶えたようです。 この元景以降の事情については、広島藩浅野氏に仕えたとする元景の次子については触れられていないものの『閥閲録』井上源三郎[9]の記載からも確認できます。

粟屋左馬

残る一人、粟屋左馬については、今のところ確認した範囲で隆景の諸大夫となった人物を伝える史料を他にみつけられていません。 ただ、毛利氏家臣の粟屋氏の中には粟屋左馬の名乗りを確認できますのでこれをまず取り上げます。

粟屋氏で左馬の名乗りで知られるのは左馬允元方であるようです。

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