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原筑後守と観音寺(2) [人物]

前回の続きです。

来島村上氏の動静

日吉郷での押領に及んだ村上牛松の振る舞いに対して、一時は来島村上氏と関係する国人へ牛松との対面禁止を申し渡すほどの対応をとった河野氏ですが[1]、 天正3(1575)年にはいずれも日吉郷内の別宮大山積神社拝殿、大浜八幡宮を村上通総が再建したことが知られており[2]、来島村上氏はそれ以降も日吉郷、府中で活発に活動していることがわかります。 この後、畿内を追われた足利義昭は備後鞆の浦へと下向しますが、その間、日吉郷の押領についてどのような交渉がなされ、どのように解決されたかを示す史料は今のところないのではないかと思います。

最終的に村上通総は河野氏を離反することになりますが、その際に重臣の村上河内守吉継、村上越後守吉郷らはこの離反劇に追従せず、来島村上氏は分裂します[3]。 離反が現実のものとなった天正10(1582)年以降、来島方の諸城は河野氏とそれを支援する毛利氏に攻められました。 この時、通総の兄、得居通幸は鹿島城を守り抜きましたが、来島城は落城し通総は秀吉の下へと逃れています。

御城山城は眼前の浅川が天然の堀としてある程度機能していたのではないかとは思いますが、長期間敵勢を支えきれるほどの要害とは言えない立地であることから、 原筑後守が通総側についたのであれば早々に落城、あるいは放棄することになったのではないでしょうか。 この城については秀吉の四国攻めの際に落城し原氏が滅んだと伝わっていたようですが[4]、これを天正10年から11年にかけての出来事と読み替えることはできるかもしれません。 ただ、新居郡の金子元宅を中心に抵抗を見せた新居、宇摩2郡に止まらず周布、桑村、越智、野間、風早の各郡に秀吉の四国攻め当時の落城伝承が広まっています。 しかし実際には当時毛利氏、小早川隆景と親しい関係にあった河野氏が秀吉の四国攻めの際に軍事的な抵抗を見せたとは考えがたく、 さらに喜多郡では天正13年当時も毛利氏の支援を受けて長宗我部氏と対峙していたことが確認されています[5]。 これらの伝承の意味するところについて、どのように解釈するのかは課題の一つとなっているのではないでしょうか[6]。

原筑後守の去就

天正18(1590)年に恐らくは親族であると思われる「柏堂重意居士」の慰霊を上蔵院に依頼した原筑後守の状況を考えてみたいと思います。 この時期は、来島村上氏の河野氏離反、秀吉の四国攻めと小早川隆景の伊予拝領、そして翌々年の隆景の筑前転封と河野通直の死による河野氏の断絶など 伊予の情勢の変化が続いた中でも西国の状況は一通りの落ち着きを得て、東国でも小田原の役が終わったことで日本国内がほぼ秀吉の手によって統一された時期にあたります。 来島通総は伊予に帰国し、兄得居通幸とともに大名となっていましたが、村上吉継、村上吉郷らは来島氏の下には復帰せず小早川氏に臣従しました。 原筑後守にとっても、来島氏に仕え続けるだけではなく、小早川氏あるいは他氏へと仕えるか帰農するといった選択肢も当時あったはずです。

帰農について考えると先に紹介したように伝承で原氏は四国攻めの際に下城、帰農したと伝わっていたようですが、 当時、上蔵院へ慰霊を依頼できるだけの経済力を原筑後守が有していたことを考えればその可能性は低いようにも思います。 天正16(1588)年、前年に亡くなった河野通直の慰霊を弔うために通直母や一部の河野旧臣が高野山に登っており、 その際に多くの慰霊の依頼がなされていることが「河野家御過去帳」から伺えます[7]が、 この年以降、慰霊の依頼が上蔵院へとなされる数はそれまでと比べて激減しています。 もちろんこれは何らかの理由で過去帳に記載されていたものが脱落していることも考えられますが、 天正18年に記録されているのは原筑後守ただ一人であり、現在残る記録では天正17年から天正20年までの前後の数年間でも合計して10件以下となります。 河野氏の滅亡と中小領主層の置かれた状況の変化が上蔵院との関係にも影響が及んでいたことが伺われます。

いずれにしても伊予に戻った来島氏が越智郡を領有したとは伝わっていませんから、天正13年以降も原氏が在城し続けていたことはありえないでしょう。 具体的にどのような道を選んだかについての史料はありませんが、同一人物かどうかは不明ながら原筑後守の名前が出てくる一例を以下に紹介します。

屋代島衆原氏

周防大島、あるいは屋代島とも呼ばれる島は周防と伊予を結ぶ位置にあり、戦国時代にはこの島でも水軍が活躍しました。 その大島がある周防国大島郡で天正末から文禄の初め頃に毛利氏から給付を受けている原筑後の存在が『毛利氏八箇国御時代分限帳』に掲載されています[8]。 周防国大島郡で23石あまり、その他長門国豊西郡で18石あまり、合計41石ほどの給地を持っています。 同じく周防大島郡に給地のある原氏として原平左衛門、原小右衛門がいますが3人の中では最も所領が小さいのが原筑後です。 この原筑後が先の原筑後守と同一人物であるかどうかについては、かつて来島村上氏が毛利氏から給付を受けていたとされる屋代島のある大島郡を領していること、 一方で屋代島衆として知られた警固衆に原氏もいたとされる[9]ことから、どちらとも判断のつけ難いところです。 同じく屋代島衆の桑原氏や浅海氏が伊予の出身で河野一族を名乗っていることは知られていますが、原氏も同じく伊予出身の一族なのか、 来島村上氏配下の原氏と同族であるのかなどこれまで言及されることはなかったようです。 原筑後守についても単に伊予と屋代島それぞれに同名の人物が居たというだけであるのか、今後は屋代島衆の実態についても調べてみたいと思います。

まとめ

ここでは「河野家御過去帳」「毛利氏八箇国御時代分限帳」そして観音寺に関する伝承に現れる原筑後守が同一人物(もしくは親子などの近親者)である可能性を考えてみました。 「河野家御過去帳」に残る原筑後守は、観音寺を創建したとされる原筑後守房康と同一人物と考えられ、その実在を示す一つの根拠となるかと思います。 また、海会寺と観音寺の位置やその後の関係などから、同人が日吉郷への来島村上氏の進出の一翼を担っていたと考えてよいのではないかと思います。 毛利氏から周防国大島郡などで給付を受けている原筑後守との関係については不明なままです。 今後、原筑後守の動静や来島村上氏の詳細を知ることができる更なる史料が現れることを期待したいと思います。

注釈

  1. 永禄13年12月1日平岡房実、垣生盛周連署条々案(『県史』2106)
  2. 今治市教育委員会『市制60周年記念 今治の歴史散歩』
  3. 中平景介「村上吉郷について」(『伊予史談』350号、2008年) 
  4. 「日吉村郷土史」(『今治郷土史 資料編 近・現代3 今治地誌集』1987年)で古老に伝わるところによれば、天正13年に原氏が四国征伐で滅ぶものの、原氏が信仰していた三十神が村内に祭られ、免租地を持ち後裔が氏神としていたとされます。
  5. 山内治朋「戦国期の肱川下流域について−須戒・横松地域を中心に-」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』14号、2009年)に肱川下流域での河野氏とその対立勢力の争いについてまとめられていますが、四国征伐直前までこの地域では河野氏と毛利氏の連合軍が長宗我部氏と対峙していたことが示されています。 
  6. 桑名洋一「伊予における天正の陣についての考察 −河野氏家臣団の動きを中心に−」(『四国中世史研究』第7号、四国中世史研究会、2003年)では越智郡周辺の河野一族の諸領主は毛利氏、小早川氏への反発が強く、実際に抵抗を見せたのではないかと論じられています。
  7.  通直の母と旧臣13名が連署した宿坊証文も残っていますが、ここに名前の見られる諸氏が慰霊を依頼していることが確認できます。
  8. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  9. 『橘町史』(1983年)の「第2編 橘町の歴史 第3章 中世」に毛利元就が厳島合戦後に「大島在住の沓屋、森友(日前)、櫛部、原(秋)、長崎、浅海(平群)、栗田、塩田、神代の各氏を厚遇し〜」という記述で原氏が屋代島衆の一員にあげられていますが、当時から在島したことを裏付ける史料が何にあたるのか未確認です。

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コメント 6

呑舟

原筑後に言及されているので一言。
伊予の原筑後と屋代島の原筑後が同一人物か否かが現時点では
はっきりしません。
根拠としている、「河野氏分限帳」は色んな時代の人達が書かれて
おり、間違いも多く、江戸中期の産物と思われ、どの原筑後か分かりません。
「高野山河野氏御過去帳」も年号の違いや江戸期の人物まで含まれており、一次史料ではなく転写等の二次史料と思えます。
「八箇国時代御分限帳」は毛利氏最盛期の分限帳と思え、
同時期に河野家家臣と毛利家家臣を兼任していたとは思えません。

屋代島の領地替えは厳島の合戦前後でガラリと変わります。
前は大内(陶)の縄張りで、後はもちろん毛利の縄張りとなります。

厳島合戦以前に屋代島に知行地を持っていた旧領主は、
緒方、尾方、高井、長崎、矢野、原、栗田、吉井、守友、らは
知行を召上げられて帰農し、同じ、旧領主でも、内藤、桑原、沓屋、櫛部、白井、飯田は整理を免れた。
整理された中に原がいる。
尚、取り上げた領地は村上、平岡、御郷、賀屋、中村、飯田、橋本、浦、国司、沓屋など19家に分配されている。
この中の平岡は房実系で、村上は通康である。
通康は後に秀吉に走るので、武吉に入れ替わる。
通康が屋代島を統治するのは27年間だけで、松尾寺に米の半分を
堀江に積み出せと新領主は強奪しているので、一般に言われるように松尾寺が従来から米をだしていたのではなく、通康になって
急に強奪されて恨み骨髄が正しいのですが・・・。

尚、桑原が河野一族とされてますが、
一族と言う言葉が曖昧ですが、臣下ではありますが、親族ではありません。桑原系図は信濃が本願地で後に伊予に流れ、河野家に仕えるとありますから、信濃村上と同行した能島村上グループと思われます。


断片的ですが・・・・。

by 呑舟 (2011-01-21 07:12) 

takubo某

原氏についてのコメントありがとうございます。

まず、「河野分限帳」に原筑後の名はありませんし、名があることを持って何かを主張しているわけでもないのですが、、、逆にその名があったとしても傍証程度にしかならないとも理解しております。

呑舟さんが挙げられている
> 緒方、尾方、高井、長崎、矢野、原、栗田、吉井、守友、らは
の諸氏の姿は関ヶ原合戦後、慶長年間まで確認できます。
具体的には下記の史料から少なくとも慶長10年の連署起請文の時点までは原氏を含む屋代島衆の構成員自体に大きな変化はない
(小規模領主が多く衰退の方向に向かっていたり、内部の力関係の変化はあるでしょうが)と理解しております。

(1)厳島合戦後...「望地注文」から毛利氏による所領安堵あるいは恩賞が確認できる
(2)天正末から文禄初頭...「八箇国分限帳」から大島郡を基盤に、厳島合戦以後の恩賞と思われる長門沿岸部での給付が確認できる
(3)関ヶ原後...慶長10年の毛利氏家臣団「連署起請文」でも屋代島衆構成員が並んで連署してる=毛利氏直臣の地位は保持していることが確認できる
(4)〜寛永期?...召放ちが進み大島郡で給領地を維持しているのは沓屋氏程度となる
(5)閥閲録、譜録編纂の頃...かつての屋代島衆の多くの姿が既に見えない

召放ちについては「閥閲録」に帰農している戸田村原七郎兵衛の書出しの内容や長崎氏の所領召上げの話などからある程度は確認できますが、、、
屋代島については厳島合戦後には村上氏の勢力が入っており、その後も徐々に外部からの領主が勢力を伸ばし、慶長5年の毛利氏防長移封で旧来の領主が旧領を維持できなくなったと思って折りますが。
また、白井(大内旧臣)、内藤、飯田(ともに毛利譜代?)といった諸氏は屋代島衆とは大きく性格の違う人物かと思います。

通説とは異なり、厳島合戦後には多くの屋代島衆が屋代島を離れたとする呑舟さんのご見解の出典をご教示いただければと思います。

by takubo某 (2011-01-27 23:40) 

呑舟

殆どは民族学者宮本常一先生の著書です。
彼の出典は古文書の原本です。
彼はご存知と思いますが屋代島の出身で、旧家や寺の古文書に実際にあたり、毛利家文書や河野家文書等と考証し書き起こしていますので信頼性は非常に高いのです。
今、展開されている内容については彼が殆どを書いた旧「東和町誌」が一番詳しいと思われます。
隣りの旧久賀町誌や旧大島町誌に比べるとやはりレベルが相当違います。
by 呑舟 (2011-01-29 20:42) 

takubo某

出典は『東和町誌』ですか、、、
いや、流石に屋代島に関して『東和町誌』を抜きに語るつもりはありませんが、他の町誌と大きく異なる歴史展開を示しているとも記憶しておりません。
むしろ、慶長5年に村上氏の本拠となったことを契機に島内の状況が大きく変わったことをもっとも取り上げているのが同誌かと思いますが。

私の手元にある『東和町誌』からのメモ書きでも「八箇国分限帳」に名が残る屋代島衆の否定はなされていません。
呑舟さんが早くに帰農したと書かれた長崎、矢野、栗田氏などが朝鮮へ渡海したことも取り上げられています。

個別の家ごとに本家筋の入れ替わりや絶家となるものもあったかもしれませんが、彼らが毛利家臣団から消えるのは関ヶ原合戦後、萩藩成立以降のことであることは確かかと思いますが。

by takubo某 (2011-01-30 13:10) 

呑舟

ゆづきの投稿文と併せ、歩いている道が違うみたいですね。
TAKUBOさんは能嶋村上の家臣田窪さんの関係者ですか?
by 呑舟 (2011-01-30 21:52) 

takubo某

「歩いている道」などという曖昧なものが必要なお話をしているつもりはないのですが。
しかし、全て呑舟さんのジャッジによって話が進行するというルールがあるのであれば、確かに異なっているのでしょう。

なお、別に私は呑舟さんが取り上げられている大野系図やその他の史料そのものが疑わしいと言っている訳ではありません。
『東和町誌』の内容を誤解されていたり(あるいは時代性を曖昧にしてコメントされたり)、私の文章を誤読されていたこと、あるいはこちらへのコメントでの度重なる人名の記載ミスを見て、そうしたことが続けば他で書かれている内容についても信頼が置けなくなってしまうと申し上げているだけのことです。
個々の史料の信憑性についてとは完全に独立しているお話です。

ちなみに村上四兵衛さんと「走った」方々であれば数年後に天罰を受けられたようですから子孫もいらっしゃらないのでは(笑)
それは冗談としても私の家に伝わるものは何もありませんし、そうした状況で私が興味をもっているのは伊予の国での中世の終わりから近世の初頭に起こった出来事そのものにありますので、ルーツ探しを優先する動機はないのです、、、
by takubo某 (2011-02-01 11:32) 

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