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戦国伊予の合戦いろいろ [合戦]

戦国時代の伊予はどの程度戦乱に巻き込まれたのでしょうか。 その点について言えば、少なくとも世に広く知られる大規模な合戦はほとんどなかったと言えるように思われます。 ここでは伊予国内で起きた主に16世紀の合戦を簡単に取り上げるとともに、それが近世にどのように影響したのか考えてみます。

戦国伊予の合戦

私見で戦国時代後期の伊予での主要な合戦のうち、特にトピックのあるものを以下に示します。

  1. 鳥坂合戦(永禄10(1568)年):河野、毛利氏 vs 宇都宮、一条氏
  2. 三間表の戦い(天正6(1578)年):西園寺氏 vs 長宗我部氏
  3. 花瀬合戦(天正7(1579)年):河野氏 vs 不明
  4. 天正の陣(野々市原の戦い)(天正13(1585)年):毛利氏 vs 金子、長宗我部氏

これら合戦の特徴は花瀬の戦いを除けば伊予国外からの軍勢と伊予国内の勢力が戦ったものであるということでしょうか。 そして、逆にこの時代、伊予国内の勢力が主体となって国外へ進出した例はほとんどないと言えるかと思います。

合戦の規模としては先の一覧であげた鳥坂合戦、天正の陣の2つが最大のものであると思われます。 いずれの戦いにも毛利軍は万余の軍勢を伊予に上陸させており、この2つの戦いを除けば戦国時代に伊予国内で一万人以上の軍勢が集ったことはなかったのではないでしょうか。

『予陽河野家譜』には花瀬合戦で忽那通著、土居通利が討死したと記されます[1]。 忽那通著の死を受けて子の忽那亀寿丸へ出された感状の原本が確認された[2]ことで花瀬合戦の存在は確認されたと言えそうですがなお詳細は不明なようです。

近年喜多郡関係では長宗我部氏と関係を強め、反河野氏に動いたと見られる曽根氏関連の史料の発見が伝えられます[3]。 『家譜』の伝える大野直之との戦いとは裏腹に異なる実態があったのかもしれません。 むしろ上記書状により喜多郡への長宗我部氏の介入が確認できるのは天正12年まで下るとのことであり、宇都宮氏の終焉を含め、未解明の状況が続きます。

幻の合戦

一方、軍記物や伝承には残るものの、合戦の存在自体が事実とは思われ難いものも存在します。

『予陽河野家譜』には天文8年に阿波の細川持隆が、阿波讃岐両国の兵を率いて伊予を攻めたことが記されています[4]。 これについては若松和三郎氏が備中へ軍を向けた際のことが誤って伝わったものか、と指摘されています[5]が、少なくとも河野氏が関わる伊予国内での戦闘はなかったのではないでしょうか。

さらには元亀年間に阿波の三好氏および三好氏と同盟した織田氏、さらに毛利氏、大友氏によって次々と伊予が攻められたものの、いずれも撃退した、と『家譜』は伝えます[6]。 しかし、これらの合戦については当時の政治状況などから言ってもそのまま信じられるだけの証拠がありません。 織田、三好氏に攻められたとするものはその主将の一人が織田家に臣従していた山岡対馬守、三好将監としますが、山岡対馬守など瀬戸内との関わりも見られずどのような経緯によるものか興味深いところです。

この元亀年間の一連の合戦については「清良記」第16巻にも同様に三好氏や毛利氏との交戦についての記載があるようです。 「清良記」側の記載を未確認ですがこれが家譜への出展元であれば、毛利側の武将として筈西、津高、神名、見嶋、高宮など実在しない人々が現れる点についても、「清良記」が子孫の続く実在の人名の記載を避け ているとの指摘[7]もあり、これに類するものと言えるかもしれません。

越智郡諸城の落城伝承

野々市原の戦いは天正13年の四国攻めにおいて、羽柴秀吉に与同した毛利氏の軍勢が新居、宇摩郡を制圧する際の伊予国内最大の激戦である、と言えます。 ところが、その戦いにおいて討ち死にした、あるいは毛利軍と戦って討ち死にしたと伝える周布郡以西の河野氏勢力圏の武将が存在します。 代表的な例で言えば、忽那氏の当主通恭がそうであると「忽那嶋開発記」に記されます[8]。

このような史料や越智郡地域に残る落城伝承を取り上げ、天正13年にこの地域では反毛利氏に動いた勢力が多数あったのではないかと桑名洋一氏が指摘されています[9]。 ただ、個人的には越智郡地域での来島村上氏の勢力を考慮すれば、これらの落城伝承が必ずしも天正13年を正しく指しているとは言い切れない状況があると思われます。 例えば先に取り上げた 石井村での戦い では存在し得ない長宗我部軍との戦いが伝承されていました。 また、久留島氏が天正年間に度々、府中、道前地域での戦いを伝えています。 こうした府中の主導権を巡る来島村上氏とそれに反する勢力との戦闘が近世を通じて「天正の陣」に関わる落城伝承という形で収束した可能性があるのではないでしょうか。

野々市原の幻影

もうひとつ野々市原の戦いが残した影響についての私見です。

先の忽那通泰の討死を伝えるケースを検討します。 これをどのように解釈するかについては2つあるかと思います。 一つには、毛利軍と共に軍事行動を行った可能性です。 河野氏としては喜多郡で親長宗我部勢力と対峙していたことからそうした余力があるとは思えません。

もう一つが、近世伊予に伝わった(しかもその対立関係が分かりやすい)大規模な合戦が野々市原合戦のみと言っても良かったことによる、系図の偽作、家伝の装飾に利用された可能性です。 金子元宅の勇敢な最後については近世既に知られていたと思われますので、同時代の人物がこの合戦で同じく討死したと「設定」されることは有り得ると考えます。

同じく規模の大きい鳥坂合戦については、土佐、あるいは讃岐でのものと誤認されることも多く、近世広く浸透していなかったのではないでしょうか。 鳥坂合戦の前哨戦の戦地の一つとして名前のあがる「高島」についてもその場所が確認されたのは近年の話です[10]。 また忽那新右衛門尉通保という人物は、[先に取り上げた|shukubou-shoumon]]とおり、天正16年の通直母に同道して高野山へ滞在している[11]ことから、天正13年に亡くなったとするのは誤りと思われることはこの 傍証とならないでしょうか。

最後に同様に野々市原での討ち死にを伝える諸氏の例を紹介してみます。

  • 永野右衛門尉通盛[12]
  • 難波江通徳、通智兄弟[13]
  • 門間通茂[14]
  • 行本但馬守重勝[15]

これらの人々がどのような経緯で天正13年に亡くなったと伝わるのか、興味深いところがあります。

このように、天正13年に「破滅」を迎えたとも言える伊予の新居、宇摩両郡に対し、皮肉なことにもそれ以外の地域では一体何が起こり、それらを伝える諸伝承のうちのいずれが真実を伝えているのかも不明な ままであるという状況が今なお続いているようです。

注釈

  1. 『予陽河野家譜』巻之六(景浦勉校訂、歴史図書社、1980年)。また、花瀬の地については愛媛県歴史文化博物館学芸員ブログでも「南予の中世城跡 探訪6 忽那通著討ち死にの地 ―花瀬城跡―」として紹介されています。
  2. 山内治朋「『豫陽河野家譜』所収 「天正七年河野通直(牛福)感状」の原本について」(『伊予史談』352号、2009年)。同文書についてはやはりもうひとつの忽那文書を収蔵に記事「もうひとつの忽那文書を収蔵」があります。
  3. 橋詰茂「長宗我部元親新出文書について」(『香川県立文書館紀要』第11号,2007年)
  4. 『予陽河野家譜』巻之四((1)に同じ)
  5. 若松和三郎『篠原長房』「第1編 篠原長房 4 長房の初陣」(1989年)
  6. 『予陽河野家譜』巻之四、巻之五((1)に同じ)
  7. 伏見元嘉『中近世農業史の再解釈 『清良記』の研究』第I部 「軍記」の解釈(思文閣出版、2011年)
  8. 景浦勉編「忽那嶋開発記」(『中島町誌史料集 改訂版』、1985年)に「天正13年、高峠城合戦之剋、為小早河討死ス、同年5月7日」とあります。5月では野々市原合戦の時期とも符号しません。
  9. 桑名洋一「伊予における天正の陣についての考察 ー河野氏家臣団の動きを中心にー」(『四国中世史研究』 第7号、2003年)
  10. 川岡勉「永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察」(『愛媛大学教育学部紀要. 第II部, 人文・ 社会科学』vol 36、2004年)
  11. 「高野山上蔵院文書」天正16年4月27日 河野通直母等宿坊証文写(土居聡朋、山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(中)」(愛媛県歴史文化博物館『研 究紀要』12号、2007年)
  12. 『今治拾遺』「河野弘通澄家譜」(『今治郷土史 資料編 近世 1』1987年)
  13. 三角範子「延慶二年六月二九日付関東御教書について―河野氏関係文書の移動・伝来の一端―」(『七隈史学』9号、2008年)
  14. 『朝倉村史』上巻「第2章 朝倉の歴史」第7節 朝倉を囲む緒城の盛衰(1986年)での鈍川鷹ケ森城主 越智駿河守の弟門間氏についての説明。
  15. 竹田覚「ふるさと散歩(17) 松山市庄府」(『風早』56、2002年)では『伊予温故録』の記載として紹介されます。


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