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景好の没年についての一考察 [人物]

  • 2010/7/4 第2版 蓮光寺についての記述を追記

宍戸景好の没年についてははっきりした史料が残されていませんが、景好の叔母清光院に関連した史料から寛永9年以降に没したのではないかと考えさせるものを見いだすことができました。 ここではその史料から得られる情報を検討してみたいと思います。

没年についての2説

確認した限り、宍戸景好の没年について伝えるものは以下の2つが存在しています。

ひとつは景好寺の寺伝であり、元和8(1622)年9月9日に亡くなり、享年51歳であったとしています。 景好寺に伝わる所伝はその生年も景好の兄弟と比べて自然であり、その名を冠した寺に伝わることから信じたいものはありますが、一方で同じ所伝が景好の子を景昭、景治といった他史料には見られない名を伝えているところには疑問が残ります。

一方、「三丘宍戸家系」では寛永10(1633)年7月19日没と伝えています。 他にも某年7月19日没と伝える系図もあることから、こちらも何か根拠があったものと思われます。

これらは法名をいずれも古剣宗快と伝えながら、院号について、「三丘宍戸家系」が芳春院と伝える一方で、景好寺には青谷院と伝わっているなど微妙な齟齬が他にも残ります。

綾木村 月松山明林寺

この没年についての謎に関する史料が、『防長寺社由来』における美祢郡綾木村(旧山口県美東町、現美祢市)の真宗寺院、月松山明林寺の記述[1]に見られます。 清光院の没後の一周忌にあたっての奉書が残っている旨が記されており、以下のように書かれています。

清光院様御一周忌の御作善の時分六月十日御日付にて伊藤元友老宍戸三左衛門殿前書、宍戸民部少輔殿宍戸但馬守殿福原相模守殿御奥書にて、直触の御奉書所持仕候

清光院は寛永8(1631)年6月20日に没しており、一周忌の年の6月10日ということで、この奉書について該当するのは寛永9年となります。 前書にあるという伊藤元友、宍戸三左衛門については詳細が不明ですが、あるいは宍戸本家の家臣でしょうか。 その名乗りから奥書にある3名はそれぞれは民部少輔が元真、但馬守が景好、福原相模守が広俊の子、元房となります。

この3名の清光院の関係を見てみますが、まず景好は当然ながら清光院の甥にあたります。

同じく甥に当たる民部少輔元真は輝元清光院夫妻に寵愛されたと伝わり、輝元の死後も信常元程[2]と共に清光院の側にいることがわかります[3]。

また、元房はその妻が清光院が「嬰児の頃より」育てた養女であり、さらにその娘の出自もやはり清光院の甥でもある内藤元盛の実の娘ということになります[4]。 この元房は寛永3年に相模守を与えられており[5]、名乗りについても問題はありません。 元房は延宝6(1678)年に86歳で亡くなっており、生まれは文禄2(1593)年ですので、 その妻もその前後の生まれと思われます。 あるいは秀就の誕生後、実子を諦めた清光院が血縁に当たる娘を養女としたとも取れそうです。

これらの関係略系図を後ほど示しますが、清光院の年忌についてこの3名が関わることには不自然な点はないと言えるのではないでしょうか。 寛永9年当時、宍戸本家を継いだ元続、その子広匡も既に亡くなっており[6]、景好、元真の兄弟は清光院に最も近い縁者であるとも言え、実子のなかった清光院にとって元房は大事な婿であったことでしょう。

この奉書の存在と景好の署名が確かであれば景好は寛永9年の時点では存命であり、寛永10年に亡くなったとする記述が正しい可能性も強くなりそうです。 ただ、民部元真と異なり、寛永3年の給禄帳では子の善左衛門の名が載っているため既に隠居した形跡があるとはいえ、寛永2年の輝元の葬儀にもその名前が見えない点は景好の存命の可能性のついてマイナスの部分ではあります。

残念ながら『防長風土注進案』[7]にもその奉書の内容は示されておらず、どこまで信じられるものかを知る術はないようにも思われます。

関係略系図

宍戸、内藤、福原各氏関係略系図(★は明林寺の奉書に署名の伝わる人物)

       ―隆春―綾木大方
   内藤興盛―女子 |―――――女子
        |――元盛    :
   宍戸隆家 |――――★元真 :
     |――元秀―――★景好 :
     |――清光院======女子
    ―五竜局|        |
毛利元就―隆元―輝元 福原広俊―★元房
        |―秀就 
   児玉元良―二ノ丸殿
       ―女子(益田景祥室)
       ―女子(明林寺室?)

なお、内藤隆春の娘で元盛の妻となった女性は彼女が与えられた隠居領(あるいは堪忍領)から綾木大方と称されていたようです。

また、『寺社由来』にも『風土注進案』にもみられない記述ですが、当時の明林寺住持心了の室が児玉元良の娘、即ち秀就の伯母に当たる女性であったとも伝わっています[8]が、これを示す系図類は見当たりません。

金龍山蓮光寺

その後調査を続けたところ、明林寺と同様の奉書の存在を舟木宰判東須恵村(現山口県宇部市)にある真宗寺院金龍山蓮光寺も伝えていたことが確認できました。 ここではその奉書[9]の内容も伝えられています。

『寺社由来』[10]では奉書の事情について

当家清光院様於山口ニ遊御誓去候節、拙寺八世の願誓儀、端坊ニ被相添御葬送の御勤仕、御焼香等被仰付、翌年御作善御一周忌の時分、寺社御奉行伊藤元友老宍戸三左衛門殿宍戸但馬守殿福原相模守殿、右の御衆中連判の御奉書所持仕候事

と書かれており、同じく伊藤元友、宍戸三左衛門の奉書と民部の名は抜けていますが、但馬、相模による奥書の存在を伝え、奉書の前書にある伊藤、宍戸の両名について寺社奉行としています。

その奉書は清光院の一周忌にあたって、6月16日から20日までの法要にあたり蓮光寺へも萩へと出府する旨を命じるものとなっており、但馬守らによる奥書部分については「伊藤元友宍戸三左衛門より被申候」ことについて「為不可有御緩」ための奥書として記されています。 伊藤、宍戸の両名が萩藩で寺社に関連する役職にあるとした場合、一門宍戸氏の縁者とは言え民部元真や但馬守景好らがこのような奥書を書く必要があるものなのでしょうか。

まとめ

『寺社由来』『風土注進案』の記述から宍戸景好の没年についての考察を行いました。 明林寺、蓮光寺と複数の寺院に清光院一周忌の奉書奥書の一人として宍戸但馬守の名が伝わっていたことになり、この記述を信じれば、景好は寛永9年の時点で存命であったことになり、寛永10年の7月に没したと伝わるものとも整合することとなります。

ここではこれ以上の判断は不可能ですが、いずれにせよ、これまで宍戸景好自身が注目されることが少なかったことは間違いなく、今後さらにこれまで広く知られていない史料からもその事績が確認されることに期待します。

注釈

  1. 『防長寺社由来』美祢宰判「綾木村 月松山明林寺」(山口県文書館『防長寺社由来』第5巻、1984年)
  2. 信常氏は毛利氏庶流で元程はその庶流にあたる元実の四男です(『萩藩閥閲録』巻63信常太郎右衛門、第2巻)。また、後に元程の甥就利の跡を宍戸民部元真の孫知徳が継いでいます(『萩藩閥閲録』巻69信常弥右衛門)。
  3. 『毛利四代実録考証』寛永2年11月5日条(『山口県史 史料編 近世1下』、1999年)で、秀就が信常太郎右衛門尉元程、宍戸民部少輔元真に清光夫人へ仕え奉る男女諸事の掟を命じていることがわかります。
  4. 田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』「44 寄組福原家」(マツノ書店、1980年)
  5. 『毛利四代実録考証』寛永3年12月13日条
  6. 元続は清光院の死の直後の寛永8年7月25日に、広匡はそこから溯ること5年前の寛永3年8月22日に亡くなっています。
  7. 『美禰宰判』綾木村(マツノ書店『防長風土注進案』第17巻、1983年)
  8. 『美東町史 通史編』「第10章 美東町の社寺 第2節 仏閣」15 真宗 月松山 明林寺(2004年)
  9. 『防長風土注進案』「舟木宰判 東須恵村」蓮光寺の項(『防長風土注進案』第15巻 舟木宰判、1983年)
  10. 『防長寺社由来』舟木宰判 「東須恵村 真宗金龍山蓮光寺」(山口県文書館『防長寺社由来』第4巻、1983年)

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