So-net無料ブログ作成

包久内蔵助(1) -小早川氏庶流包久氏の戦国時代- [人物]

小早川隆景家臣の諸大夫成として名前が上がる8名のうち、先に紹介した 乃美景嘉裳懸主水に引き続き、3人目の小早川一族出身者として包久内蔵助を追ってみます。

包久氏

包久氏は竹原小早川氏の一族であり、15世紀末の小早川弘景置文[1]では、一族一家としては草井、包久、小梨子の各氏が上位に置かれるべき存在として挙げられています。

戦国期の包久氏も小早川氏との関わりの中でその存在が確認できます。 少輔五郎景勝は木津川口の合戦に毛利水軍の一手として参加したようで、その戦勝報告[2]に名を連ねていますし、そこから小早川氏の水上戦力の一部を担っていたことがわかります。 また、隆景の晩年に活動が見え、輝元の側近木原元定の三原統治にも関わっている次郎兵衛景相[3]も知られます。 内蔵助もまたこの同族と考えられますがそれぞれの系譜上の位置付けについてははっきりとはしていないようです。

次郎兵衛景相は、隆景死後に毛利氏帰属を求めて連署起請文を提出した隆景の重臣7名の内の一人でもありますが[4]、この7名では関が原後には井上親子と粟屋景雄、桂景種は毛利氏を離れ、鵜飼元辰が輝元に誅殺されるなどの経緯を辿っていおり、景相のその後もはっきりしないのではないかと思われます[5]。

「侍付立」に見る包久氏

「侍付立」[6]では諸大夫成をしたとする包久内蔵助の他、侍大将として内蔵允、侍大将並として左馬、旗本として因幡の3人の包久氏を確認できます。

左馬については後述の「小早川文書」の「座配書立」に一度名前が見えます。 また、永禄4年に毛利元就隆元父子が隆景を沼田に訪問し、小早川氏が歓待した際の記録にも先に紹介した裳懸氏同様に包久氏の名前も見え[7]、ここに現れるのが左馬助です。 この時、左馬助は宴席での二献を担当した人物として現れます。 同記録に名前の出る包久氏は左馬助ただ一人であり、同人がこの時期の包久氏の中心人物だったのではないでしょうか。

また、包久因幡は瀬戸島にあった城の城主を務めたと伝わります[8]が、これがいつの時代のことか、はっきり紹介している物は見いだせませんでした。 ただ、景勝が木津川口の戦いに貢献したことを考えれば、この地域に包久氏の警固衆としての根拠地が存在していたのかも知れません。

後述するように内蔵允と次郎兵衛は少なくとも別人であることから、「侍付立」に名前の見えない次郎兵衛が左馬助あるいは因幡守と同一人物である可能性はあるでしょうか。

包久内蔵允

内蔵助だけではなく「侍付立」には包久内蔵允の名も記載されていますが、いくつかの文書史料に包久内蔵丞の名前を見いだすことができ、こちらの人物は景真と名乗っているようです。

その一つとして、木原元定宛書状に残る「包蔵 景真」[9]が見えます。 元定は輝元の側近の一人で、先に述べた通り隆景死後の三原支配に関連して輝元から派遣されている人物です[10]。 同書状には輝元の所在であると思われる伏見に罷り上らせる人物として「う新」(鵜飼元辰)、「包次」(包久景相)が挙げられています。 これにより、景相と景真は別人であることが確認できますので、当時包久氏には景真と景相の2名の有力者が存在したことになります。 また、この書状が井上春忠、粟屋景雄との連署であることから考えても、内蔵丞が隆景家臣団を代表し得る立場にあったことも伺えます。

座配書立に見る包久氏

包久内蔵丞は「小早川家文書」の正月座配書立[11]にその名が天正10年、11年、14年と確認できることからも実在は間違いありません。

下記に包久氏の中で座配書立に現れる人物を示しますが、天正7年まで姿の見える弥七郎と天正10年以降に見える内蔵丞の存在が確認でき両人は同一人物の可能性も考えられます。 これを見る限り小早川家中の儀礼上の位置付けから、包久氏の代表者は左馬助→(弥七郎→)内蔵丞と変遷していると推測することができそうです。

この内蔵丞が文禄年間以降にも見られる内蔵丞、と同人であれば、天正10年から逆算して遅くとも永禄の末には生まれていたと思われますし、座配書立に現れる弥七郎も同人と見た場合にはさらに下限が10年近く遡りそうです。

また、木津川口で名を残した景勝については天正4年当時、少輔五郎を名乗っていますので弥七郎とは別人と考えたいと思います。

年代名前
不明包左馬
天正4年包久弥七郎
天正5年包久弥七郎
天正6年包久弥七郎
不明包、包弘
天正7年包久弥七郎
天正10年包久内蔵丞
天正11年包久内蔵丞
天正14年包久内蔵丞

この他、「座配書立」以外では天正10年に包久又七郎の存在も確認できます[12]が、これも弥七郎の近親者と考えられそうです。

また、その正体は不明ですが、年未詳の小早川隆景書状[13]の文中に「裳 弥左」(裳懸盛聡)と並んで「包 新」の名前が見られ、これも包久一族の一人でしょう。

注釈

  1. 「小早川家證文」401 10月2日 小早川弘景置文案(『大日本古文書 家わけ 小早川家』)
  2. 「毛利家文書」338 (天正4年)7月15日 村上元吉外十四名連署注進状(『大日本古文書 家わけ 毛利家』)
  3. 「閥閲録」「巻83 重見与三左衛門」10 慶長3年9月6日 木原元定宛 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』第2巻、1995年)
  4. 「毛利家文書」1191 慶長2年12月6日 毛利元康宛 井上紹忍春忠外六名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家』)
  5. 残る末長景直についても、末長本家は景通の後を乃美宗勝の子、景綱が継ぎ、後に磯兼氏を名乗っていますが景直のその後ははっきりしないようです。
  6. 「豊浦藩旧記 第27冊」小早川隆景公御家中名有侍付立(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  7. 「毛利家文書」403 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)、永禄4年3月26日からの元就、隆元父子の小早川氏訪問の記録。
  8. 『日本歴史地名大系 広島県の地名』「安芸郡瀬戸島村」(平凡社、1982年)の項によれば音戸大橋の西側橋脚付近の城山に兼久因幡守の居城があったことが『芸藩通史』に記されていることが紹介されています。
  9. 「閥閲録遺漏」「巻1-1 重見孫右衛門」25(慶長4カ)正月25日 木原元定宛 井上春忠、粟屋景雄、包久景真連署書状(『萩藩閥閲録遺漏』、1995年)
  10. 木原元定はかつての河野氏家臣重見通種の子と伝わり、後に子孫は姓を重見に復しています。『予陽河野家譜』にあるような通種の遺児3人が木原、尾原、栗原を名乗ったとする話の裏付けは見いだせませんが、重見通種とその後裔については改めてまとめてみたいところです。
  11. 「小早川文書」473、475「小早川家座配書立」(『大日本古文書 家わけ 小早川家』)
  12. 「楢崎文書」13 10月1日 井上又右衛門尉、飯田讃岐入道殿(景継)、鵜飼新右衛門尉宛 井上源十郎御物注文(『広島県史』)の裏書として「天正10年10月19日 包久又七郎 河井彦右衛門」とあります。
  13. 「閥閲録遺漏」「巻2-2 国貞平左衛門」27 7月11日 国甚左宛 隆景書状(『萩藩閥閲録遺漏』)に「包新」、「裳弥左」と相談するよう書かれています。

nice!(0)  コメント(26)  トラックバック(2) 

nice! 0

コメント 26

コメントの受付は締め切りました
河野芳嘉

家伝によると安芸国に残った木原(兵部? 元定の兄)の末裔です。是非その後の通種の二人の兄弟についてご教授下さい。
by 河野芳嘉 (2011-10-29 16:35) 

takubo某

河野さま
はじめまして、お返事が遅れすみません。
通種の2人の兄弟についてですが、私も重見氏についてはまだまだわからないことだらけで、はっきりしたお答えは難しい状況です。

あまり詳細にまとめられないのですが、以下簡単に。
まず、通種の2人の兄弟とは「通種の子とする木原、尾原、栗原3氏について」「伊予に残った重見氏について」のいずれとなりますでしょうか?

前者につきましてはいわゆる軍記物である「与陽盛衰記」が大元の出典ではないかと思われ、真実性については部分的なものではないでしょうか。
他サイトとなりますが、越智姓八塚氏についてお調べの方の以下の記述などご参考になれば。
http://www.geocities.jp/ayatuduka/keizukousatu.html
http://www.geocities.jp/ayatuduka/sigemi.html
また、今治藩士にも重見氏が居り、元は尾原氏で、通種からの系譜を伝えているようです。

後者については通種三弟の流れが跡を継ぎ、四国攻めの折に下城と伝わるようです。
ただ、その間、戦国伊予の所々に現れる「重見」の正体はその位置も系譜はっきりしないようで、謎な箇所が多いものと思われます。
越智郡石井山城(今治市)、風早郡日高山城(旧北条市)の城主と伝えます。

お話の方向性など、私が把握できていないようであればまたご返信などいただければと思います。
by takubo某 (2011-11-07 00:01) 

河野芳嘉

■安芸国河野重見(木原)の末裔について
「萩藩閥閲録 巻八十三 重見与三左衛門」掲載されている何通かの古文書に兄の木原兵部丞元次と弟の木原紀三郎元定の所領安堵状のほかに、兄の兵部丞(安芸河野の先祖)が元就から〝重畳堪忍の後、緩怠の条を申し付けられ蟄居断絶の模様と弟へ輝元や隆景、尾崎の局(元就長男隆元正妻*文書の永禄13元亀元年当時隆元亡)から慰めの文書、萩移封後に弘治元年(厳島合戦の年)から毛利に属したことなど重見家の系図(伊予からの経緯(1530年当時河野一族筆頭家老重見通種「*長男、木原兵部丞 次男紀三郎」が当主親子の内訌の後大内の宿将になり後の厳島合戦では陶方で俘虜後切腹、遺児2人元就の家臣になる)を憚り周防出奔などを隠し部分的に改竄したと思われます)が記載されていますのでご確認頂きご意見賜りたく存じます。
by 河野芳嘉 (2012-03-25 16:22) 

takubo某

お返事が遅くなりもうご覧になっていないかもしれませんが、、、

あまり、何も示すことができるものがないのですが、注目点の一つがなぜ木原を名乗ったかかと思います。
西条と関連があるのであれば平賀氏庶流木原氏との関係は?また、それ以外にもいくつかの木原氏が安芸国衆の家臣に見えますが、
その辺の事情が分かれば木原元次が誅殺された理由、元定が輝元近くに仕えていた理由などにつながるのではないでしょうか。

by takubo某 (2012-05-24 01:28) 

河芳

木原と名乗ったのは、重見通種と室その子兵部と元定が当時の大内領安芸の国西条の木原を義隆から与えられて居を構えていたことによると思います(予陽盛衰記参照) また、兵部は「蟄居断絶」であり、誅殺されてはいません。吉田庄番(可部吉田境の上根峠の関所)をしていたようです。関ケ原の後、弟元定は側近としての立場もあり輝元に従い萩に赴きましたが、兄の兵部は吉田で豪商竹野屋となった子孫と、郷士として上根近郊に住した2系統に分かれたようです(長年各家に残された古文書などで裏付け調査中です)
by 河芳 (2012-05-29 17:35) 

takubo某

兵部の吉田庄番については初めて知りました。そのような事情があったのですね、、、
先にも述べたとおり西条木原の地はそもそも平賀氏庶流木原氏の所領かと思いますので、ここに通種が入ったのであれば、木原氏と縁戚関係を結んだ可能性も推測してみたいと思います。
その後の、輝元側近となるまでの間がどのように埋まるかを含めて興味深いところではあるのですが。

by takubo某 (2012-05-31 01:30) 

河芳

関ケ原の後、萩に従わず吉田に残り豪商となった竹野屋河野の(河野与三郎は「へらほりの池」の逸話で有名、また京都から今に伝わる「京都の祇園祭りを模した”だんじり子供歌舞伎”を誘致)数代後の当主の次男が岡山の矢掛の陣屋石井家の養子なったときに携えた「河野由来記」に弘治元年厳島の陣の後、毛利に属し・・・と書き残しています。その2~3代後の江戸末期に当主が幼少であったため家系が途絶えています。 平賀氏庶流の木原氏と伝わる家系も萩移封後に豪商となり、今に東広島市の文化財として家屋敷が保存されていますが、当時の河野一族の置かれた状況(主家の断絶・秀吉暗殺未遂事件数回失敗*八幡の藪事件など)を考えると、名を隠し身を隠し、家系を改竄して友好関係にあった平賀氏の庶流と偽り、生き延びたのではないかと考えられます。(長年に渡り調査中の案件です) 次男喜三郎元次の名は伊勢神宮のお札を郡山城内にある輝元の屋敷など重臣に配った記録に、木原喜三郎元次とあります。元就の命により輝元の側近となり、隆景没後の三原城受け取りなどの文書にも名が見えます。
by 河芳 (2012-06-02 18:14) 

しまりするる

こんばんは。 
はじめまして。
「重見氏」で検索していましたら、こちらにたどりつきました。
誠に失礼とは思いますが、 不思議に思っていることがあり
もし、ご存知でしたら教えてください。
「重見氏」は元は四国の「河野氏」と関係があることを知りましたが、
行った所が山口県の大内氏の所なのでしょうか?
(河野氏と大内氏が仲が良かったから? 逆に悪かったから?)
とんちんかんな質問かもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。



by しまりするる (2012-06-23 22:08) 

通嘉

享禄3年(1530年)の当主河野通宣と嫡男通直との間で内訌があり、一族庶家の重臣重見因幡守通種は、通直の命で出陣した村上通康との戦いに敗れ、当時河野重見と友好関係にあった大内義隆を頼って出奔した・・・と諸記録にあります。
by 通嘉 (2012-06-24 17:13) 

しまりするる

こんにちは。
通嘉さま 教えていただきありがとうございます。
主をかえるということがあるのですね。
歴史の知識がないためとても助かりました。
なぜ、「河野」姓でも「重見」姓でもない私がこちらにお尋ねしたかといいますと、
実家(山口県)の墓所内に「重見」と大きく彫られた大きなお墓があります。
墓石の表は 「重見家之墓」ではなく 「重見」の二文字 その周りは 仮名文字で 俳句のようなもの(くずし字なので読めず・・・)、墓石の裏には 「重見因幡守通種」 「富田城」 「厳島」 など多数の文字?漢文?がぎっちり彫られています。 そこから 5メートル離れた所に、木原家の墓がたくさん立ち並んでいます。
幼い頃、存在に気が付いてから 40年です。  その間、誰かが参られた様子はありません。 実家の墓に参る時は 気になるので 立ち寄らせていただいていますが、
そもそも こちらは重見通種さまのお墓なのでしょうか? 俳句のようなものは何を意味するものなのでしょうか? 
お墓のことでもあり、人に聞くこともしないまま過ごしてきましたが、
ご存じでしたら教えてください。
  
by しまりするる (2012-06-26 14:15) 

takubo某

しまりするる様

はじめまして。

御子孫がいらっしゃることや各種記録などから重見通種という人物が河野氏に反旗を翻して四国を追われ、大内氏を頼ったことは確かなようです。
川岡勉先生などは大友氏、武田氏などと反大内氏の立場に立った河野氏に対し、大内方が重見氏を反乱に走らせたのではないか、と述べられています。

お知らせいただきました、お墓の件、興味深いお話です。
通種は陶氏の富田若山城に滞在したことがあり、後に厳島合戦で自刃したと伝わっているようですので、供養塔としてそのあたりを記されたものでしょうか。
通種の子孫のうち、萩藩士木原氏(後に重見氏に戻されたものあり)として数家続いているようですので、そちらの御関係者によるものではないかと思いますが、、、
具体的なところは通嘉さまの方がお詳しいかもしれません。

by takubo某 (2012-06-29 00:44) 

しまりするる

takubo某さま

 おはようございます。
 お返事 ありがとうございます。
 実家のある市内には 「重見」姓のお家は 無いらしいので
   (昭和の電話帳で見る限りでは)不思議に思うことはたくさんあります。
 供養塔なのですね 
 ご関係者は 祖先を大切にされてこられたのたと 強く感じます。
 takubo某さまの所へ 突然 飛び込んでの質問に丁寧に 答えていただき
 失礼をお詫びするとともに 本当に感謝しています。
 ありがとうございます。
 
by しまりするる (2012-07-02 08:25) 

takubo某

しまりするる様

供養塔と断定はできないのですが、お近くに木原家の墓があるとういことで、早くとも江戸期以後に立てられた供養塔かあるいは先祖の顕彰碑といったものかと思われます。

重見を名乗る方が現地にいらっしゃらないのは、(萩以外であれば)藩政時代の重見氏の地方知行地に菩提寺を置かれていたのかもしれませんが、基本的に萩集住となるため、元々現地への在住の実績がないからかもしれません。
それ以外にも維新後、上京されたか、名字を改められた可能性もありそうです。

こちらこそ興味深いお話をありがとうございました。
by takubo某 (2012-07-03 02:31) 

ぱんだ3世

しまりすする様

初めまして、
重見通種の名を刻した墓なるものが気になりました。

差し支えなければ、その墓所は山口県のどこにあるのでしょうか?
お教え願いませんか?
もし、分ればその墓所を管理する寺名と宗派を教えてもらえませんか?
木原家は山口県に散在します。貴方も木原家の関係者でしょうか?

by ぱんだ3世 (2012-07-06 08:00) 

木原孝之

はじめまして。木原と申します。
父から、ぼろぼろになってる家系図の話を聞き、その中にある名前(重見因幡守通種)を検索したところ、こちらに辿り着きました。

家紋は何故か武田菱で、家系図も分析していないので、全てが不明です。

皆様お詳しくて感服いたします。
しまりすする様のお墓情報も大変気になっております。
もし、差支えなければ、住所等お教え頂けると有難いです。

当方、現在、福岡に住んでおります。

また、何か分かり次第、ご報告致します。 拝

by 木原孝之 (2012-07-06 17:10) 

ぱんだ3世

木原孝之さま、初めまして。

木原家家紋が「武田菱」が気になります。

謂われ等はどのようになっていますでしょうか?
また、いつ頃から使用し始めたかわかりませんか?

また貴家系図にある重見因幡守通種の位置づけは分りませんか?
彼の父母、兄弟、子供達の記載は分りませんか?

福岡にお住みとのことですが、本籍地や、元々一族が住んでいた
所は分かりませんか?

これらによりだいたい「流れ」が見えてくるのではないかと
感じています。
by ぱんだ3世 (2012-07-07 09:21) 

takubo某

ぱんだ3世様
木原孝之様

はじめまして

続々と、重見通種ゆかりの皆様のご登場に驚いております。
謎も多い、伊予の戦国史の鍵を握る人物の一人として、
皆様がお持ちの情報から新たな通種像が見えてくるのが楽しみです。

しましするる様がご存知のお墓は、古いものであれば先にも書きました通り
木原(重見)氏の地方知行地に位置しているのではないかと推測しているのですが
こちらの行方も気になります。
最初のご返答の際に場所をお伺いするか迷ったのですが、こういう展開であれば
お伺いしておけばよかったと、、、

by takubo某 (2012-07-08 00:53) 

通嘉

しまりするる様

私も重見墓の所在地を是非知りたいと思いますが、当地広島の山間にある重見系の流れを汲むと思われる河野一族の五輪塔群も非公開としていますので公開する事に躊躇する気持ちが良く分かります。地域名だけでも教えていただけませんか? また、貴家(木原家?)の家紋を教えて頂けたらと思います。因みに当家は「隅切角に縮み三」です。宜しくお願い致します。
by 通嘉 (2012-08-05 16:53) 

まつさき

こんにちは。

山口県に住んでいます。

重見家の墓所は山口市にあります。ご住職様の

お願いで場所はあかせません。

現在は東京に住んでおられますが、今の代で終わりに

なるそうです。


by まつさき (2014-04-14 20:57) 

しまりするる

おはようございます。

まつさき様 教えてくださってありがとうございます。

遠い昔、志をもって生きておられた方を知ることができました。

また、takubo様、通嘉様、ぱんだ3世さま、木原さま ありがとうございました。


by しまりするる (2014-05-04 09:08) 

まつさき

実は、当家の菩提寺の寺紋は河野氏と同じです。もともとは大内氏のお姫の
菩提寺でしたが消失した為木原【重見】就通氏が再建しました。

只、就通と言う人が系図では2人あるようです。不明な点があります。
その重見氏のお墓を囲むように当家の墓があります。
最近移しましたが。

家伝では重見氏は当地のお殿様で当家はお仕えしていたそうです。
300年以上昔のことです。


by まつさき (2014-06-08 21:22) 

木原そらジロー

初めまして。
木原氏について探していたところ貴ブログを見つけました。

私も木原姓ですが、大正時代に山口県から北海道に移住しており、家系図等もなく祖父などから話を聞いているだけです。

除籍謄本を辿っているところですが、明治までは現在の防府市にいたみたいです。
祖父などの話では長州藩の下級武士で元々は広島にいたと聞いておりますが、何も残っていないので手がかりがない状態です。
家紋については隅切角に三文字と聞いております。

ただ農民で木原を途中から名乗っただけなのか、それとも家系を辿れば重見氏等にたどり着くのか調べてみたいところではありますね。

by 木原そらジロー (2017-06-03 17:33) 

匿名

木原孝之 きはらっぺ?
by 匿名 (2017-06-16 02:58) 

匿名

福岡 木原孝之て見てたら、載ってて、びっくりしました。きはらっぺだよね?同窓会以来会ってないから20年は たってますね。お元気ですか?
by 匿名 (2017-06-16 03:05) 

匿名

きはらっぺだよね?木原孝之君だよね?福岡だったから、そうかなと思って びっくりしました。同窓会以来会ってないから、元気ですか?
by 匿名 (2017-06-16 03:11) 

野村傳三郎の子孫

広島県安佐南区の鶏頭原薬師堂とアストラム上安駅の近所に、安の眼薬を商っていた野村家の墓所があります。野村家の墓所の1つの墓石に、野村傳三郎が伊予の重見氏の子孫だと、微かに読める字で記録されております。
野村家は江戸期に浅野家の御殿医となり、幕末に安芸高田から土生玄碩の弟
野村正友を養子に迎えております。明治期に没落して一族の在所などは無く墓所だけが当時を偲ぶものです。
私自身も重見と野村の繋がりを昨年知ったばかりで、御調の八幡藪事件の河野家墓碑を探したり、ゾクゾクするような発見が続いてます。
今は山口県熊毛町の周防小学校にあるという河野通直の墓所を訪問したいのです。江戸期に野村傳三郎が、近所の木原兵部の住んだ吉田関所と関係があるのか全く分かりません。何か接点が有るのか知りたいのです。
by 野村傳三郎の子孫 (2017-12-01 19:03) 

トラックバック 2

メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。