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黒田騒動余話 [人物]

黒田騒動の一方の主役、栗山大膳は最終的に南部家へと預けられますが、当然その関係者も皆福岡を離れることになったものでしょう。 そのような境遇にあった一人、利章の父、利安の継室で、毛利氏縁の人物でもある栄長院を取り上げます。

栄長院

筆者が栄長院と号するこの女性の事を知るキッカケとなったのは偶々のことでした。 吉田喜代氏がやはり毛利氏と関係の深い長光院について書かれたもの[1]の中で簡単に紹介されていたことに始まります。 その記述および『豊田町史』[2]掲載の、昭和5年に建てられた「栄長院事歴碑」の記載をまとめると以下のようなものとなります。

  • 栄長院は栗山備後利安の継室千代姫
  • 旧長府領の旧豊浦郡豊田町に墓が残る
  • 佐波越後守広忠二女であり穂井田元清継室
  • 元清没時27歳、家康の命で秀元姉として栗山利安へ再嫁、二女を産む
  • 娘の一人、虎姫は加藤成忠へ嫁ぐ。もう一人、吉姫は黒田某へ嫁ぐ。
  • 黒田騒動後、秀元が引き取り寛文4年に死没、94歳
  • 袖乞という持尊仏があり、善勝寺に伝来
  • 葬った寺を栄長寺と改めたが、昭和43年に阿座上の願成寺と合寺

これらに関する情報が他にどれだけあるのか、確認してみることにしました。

穂井田元清と佐波氏

まず、栄長院が初めに嫁いだとする穂井田元清ですが、最初の妻は村上通康娘(通康没後に嫁した為、村上武吉養女として、とも)であり、この女性が秀元の実母にあたります。 通康娘は天正18(1590)年に亡くなっており、 また、元清は慶長2(1597)年に亡くなります。 ただし、毛利家側の系図資料をみた場合、栄長院の存在は示されません[3]。 元清の子もすべて通康娘を母と系図上では記されます。

記録からは栄長院の生まれは元亀2(1571)年となりますので、元清の下へは通康娘生前に来たものでしょうか。 子もなく、結果、継室とは認められていなかったのかもしれません。

佐波氏側では該当する広忠娘として元清、そして栗山備後守へ嫁いだとありますがこれ以上の情報は記されません[4]。 秀元との関係で言えば、広忠と不仲であった子の元連が秀元に仕えたとあることが目につきます。

名高山栄長寺

栄長院が葬られた高山村の行伝寺は栄長寺と改められますが、この寺院について『寺社由来』の記述を確認します[5]。 その栄長寺の寺伝を抜粋すると以下のようになります。

  • 栄長院は秀元の妹、俗名を千代
  • 黒田家の家老栗山大膳へ嫁ぐ
  • 大膳有事の際に栄長院を長府へ引き取り、高山村へ居住
  • 大膳との間に2人の娘
  • 姉をおとら、妹をお吉(没日や菩提寺も記載)

また、同寺の鐘について、その銘文も記録されていますが、承応3(1654)年とするその鐘には本願として以下の人物が見えます。

  • 栗山次郎右衛門尉重次
  • 同内儀
  • 栗山半大夫重種
  • 栗山大膳息女 お寅、お吉

この他、和泉守(光広)から栄長院宛の書状も伝来していたようです。 この文中には「大せん(大膳)むすめ」との表現が見えます。

これらの記録において、まず目につくのは栄長院の嫁ぎ先を栗山大膳とするところです。 栄長院が嫁いだのは利章ではなく利安であるべきですが、その場合、利安もまた大膳を名乗ったということになります。

あるいは、先の光広書状などが後世混乱を招いたのかもしれませんが、この場合、栄長院の娘と伝わる2人についても考える必要があります。 「事歴碑」に記された嫁ぎ先については、『寺社由来』に記載はありません。 黒田騒動の時期から言っても、栄長院の実の娘ではなく、騒動時に未婚の大膳(利章)娘を栄長院が引き取っていた可能性はないでしょうか。

鐘の銘文や墓所の記録から、2人の女性が栄長院に付き従い、長府領内に居た存在であると伝わっていることは確かであるようです。 後は「事歴碑」にある嫁ぎ先としてあがる、加藤、黒田氏がどのような経緯で確認されたのか、また、騒動後、彼らがどのような境遇を得たのかを確認できれば何かわかるのかもしれません。

なお、栄長院の墓は今も現地に残るようですが、栄長寺自体は合併により他所へ移転しているようです。

稲積山善勝寺

もう一つ、栄長院、そして栗山氏に関係がある寺院が当時の長府神田村にある善勝寺です。 やはり『寺社由来』によれば、栄長院が長府領に来た当初、高山村の屋敷が出来るまでをこの寺に逗留した事が記されます[6]。 その縁で、ここには「秘仏之本尊袖乞ノ弥陀」が今も残ります。

栄長院の手を経て、長門へと伝わった仏像ですが、その縁起として、筑前の上座郡クグミヤ(久喜宮、現福岡県朝倉市)の野寺で巡り会った領主栗山大膳が安置仏としたとする由来が伝えられています。 この記録でも「大膳」と記されますが、「卜菴」の名も出る為、これは利章ではなく利安を指していることがわかります。 また、この縁起の中では、栄長院を功山寺殿(秀元)の養女と伝えられています。

以下に、栄長院縁の仏像についての所伝を紹介するサイトを挙げます。 若干の異動はありますが、栗山氏との縁があると伝わることは確認できるでしょう。

長府藩栗山氏

長府藩家臣の系譜集としてこれまで何度も取り上げてきた『藩中略譜』ですが、その中に、「栗山」が存在することに気づいたため、こちらの内容を確認してみました[7]。 果たしてその内容は栗山四郎右衛門(利安)を祖とする黒田家縁の栗山氏の系譜でした。

下に『藩中略譜』に基づく略系譜を示しますが大膳(利章)の項に栄長院についての記載があります。 曰く、石見の佐波越後守の娘で秀元の継母にあたり、神祖の命によって大膳に再嫁した、と。 「事歴碑」の記載はこれが出典かと思われます。

長府藩栗山氏自体は、大膳利章の弟、甚太郎の系譜を名乗るようです。 甚太郎の子、重次が栄長院に従って長府領へと来住し、秀元から100石を与えれた、としています。 やはり、ここでも栄長院の再婚相手を「大膳」とするものとなっています。 確認した山口県文書館蔵の『藩中略譜』には多数の朱書きが入っており、栄長院の婚姻相手を「利安ナラン」とするほか、甚太郎以降の系譜でも多くの諱が改められています。 この朱書きは「栄長院殿御次第ト栗山家ノ系図ニヨル」ものとあります。

栗山四郎右衛門—大膳
       —甚太郎—重次ー重雅(惟)

長府藩黒田氏

『藩中略譜』には「黒田」の項も存在しています[8]。 内容を確認すると、こちらも栄長院の関係者を名乗る存在でした。 尾張出身の上田三郎右衛門は黒田如水に仕え、後に栗山大膳に仕えたとしています。 三郎右衛門は黒田権左衛門とも称したとありますが、これが如水から与えられた黒田であるのか、元の出自が黒田であるのかは不明です。 子の実貞の母は肥後人梅北氏とありますが、これは島津家臣で梅北一揆の関係者ということでしょうか。

実貞が栄長院とともに長府領に至り、寛文7年に毛利家に仕えたとしています。 黒田に改めたのは毛利重就の頃の実尚であるようですが、このあたりの経緯は記されていません。

上田三郎右衛門
  |—実貞—実次—実行—実尚
梅北氏

まとめ

毛利氏縁辺から栗山氏に嫁ぎ、黒田騒動により毛利秀元に引き取られた栄長院について、毛利関係の資料から調査してみました。 栄長院の出自、栗山氏へ嫁いだ事情などいずれもはっきりしませんが、秀元が庇護するに妥当な存在であったとは考えられます。 また、長府藩には栄長院に従って長府領内へ来た後、長府藩士となった栗山氏、黒田(上田)氏が存在することが確認できました。

下記、岩本氏のように南部氏に仕えた者にも栄長院との関連を伝える家があるようです。

注釈

  1. 吉田喜代「吉田壱岐重成室長光院の周辺」(『福岡県地方史研究』35号、1997年)。長光院は小早川秀包の娘で、黒田家の家臣吉田重成に嫁ぐ。
  2. 『豊田町史』(1979年)
  3. 田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』「長府藩毛利家」(マツノ書店、1980年)
  4. 『譜録』佐波勘兵衛嘉連(山口県文書館所蔵)
  5. 『寺社由来』「高山村栄長寺」(『防長寺社由来』7巻)
  6. 『寺社由来』「長府神田村善勝寺」(『防長寺社由来』7巻)
  7. 『藩中略譜』巻之三 栗山氏(山口県文書館所蔵)
  8. 『藩中略譜』巻之三 黒田氏(山口県文書館所蔵)

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コメント 2

宍戸開閉

全て拝見しました。
大変興味深いものばかりです。

小早川家、家中の体制や、豫州の支配体制
竹原、沼田両小早川家、吉川家の元就光に取り込まれる前は石高などではどのくらいだったのでしょうか。
私は吉川家が祖先なものです。
これからも読ませていただきます。
by 宍戸開閉 (2012-12-06 12:38) 

大林

初めまして。あまり知られていない歴史上のことを書かれていて大変ためになります。

さて、先日、大分県中津市の和菓子店「栗山堂」を訪ねました。この「栗山堂」は栗山利安の子孫の方が代々営んで来られたのだそうです。
そこで栗山堂の奥さんといろいろと話をさせていただいたのですが、栄長院らしき女性についても聞くことができました。
「栗山堂」の栗山家に伝わっている話をまとめると次の通りです。
・「毛利の殿様の四男だか五男だかの娘」
・「栗山利安の後妻で、大膳の継母」
・「栗山利安との間に子供はできなかった」
・「ただ、利安の子供たちはこの女性に大変なついていた」
・「黒田騒動の後、山口に行った」
 それから女性の名前は伝わっていなかったようで、「栄長院」「千代」の名前も初めて聞いたようでした。奥さんは亡くなったお父様からこの話を聞いたようです。

それからこの店の「ういろう」は博多の妙楽寺の「ういろう」を学んだとのことでした。妙楽寺はういろうの発祥の地と言われますので、もしかするとこの店のういろう(長方形ではなく、菊の形をしてます)こそが古い形のういろうなのかもしれません。
by 大林 (2016-01-29 22:36) 

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