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裳懸主水(2)-小早川一族の裳懸弥左衛門- [人物]

小早川隆景の近臣として諸大夫成の伝わる[1]、後の高山主水こと裳懸主水の人生について、関が原以前へと溯ってみます。

裳懸氏

そもそも裳懸氏の由来は鎌倉時代に備前国邑久郡にある裳懸荘を領した小早川一族が裳懸氏を名乗ったことに始まるようです。 小早川一族として、15世紀末の小早川弘景置文にも裳懸氏の名前が見えます[2]。

戦国期の裳懸氏が具体的にどのような事績を残したのかはほとんど不明と言えそうです。 わずかに小早川氏の記録に挙がる名前からその存在を確認でき、小早川氏一族として隆景の下で活動したと思われますが、残るのは河内守や采女允に関連する書状[3]が見られる程度です。 「侍付立」には主水の他に河内守、弥右衛門、杢の3人の裳懸氏の名前を見いだせますが、それらの人物同士の間柄や事跡も詳細は不明です。

裳懸六郎と小早川家中での席次

高山主水こと盛聡は六郎を名乗ったとありますが、小早川家の座配書立では天正10年から天正14年までの間、裳懸六郎の名前が見られ、年代的にも伝わる没年から永禄10(1567)年の生まれとみられる主水を指すものと思われます。

この時、上位に「裳懸殿」の名が見える年もありますが、その位置から当時の裳懸一族の代表者と言えそうです。 以下に「座配書立」に現れる裳懸氏を示します[4]が、六郎の他、采女允、河内守、次郎四郎が主要な当時の裳懸一族と考えてよいかと思います。

座配書立に見える裳懸氏

年次名乗り
永禄2年裳懸与次
永禄4年裳懸河内守
永禄11年裳懸新衛門
不明裳懸、裳懸六郎
不明裳懸新四郎、裳懸刑部丞
天正4年裳懸殿、裳懸次郎四郎
天正5年裳懸殿、裳懸采女允
天正6年裳懸采女允
不明裳懸殿、裳采
不明裳懸殿、裳懸二郎四郎
不明裳懸殿、裳懸次郎四郎
天正7年裳懸殿、裳懸采女允
天正10年裳懸六郎
天正11年裳懸六郎、裳懸采女允
天正12年裳懸殿、裳懸六郎
天正13年裳懸殿、裳懸六郎
天正14年裳懸六郎、裳懸采女祐

また、永禄4年に毛利元就、隆元父子が沼田を訪れた際の記録[5]にも裳懸河内守、六郎、次郎四郎の名前が見えます。 元就を迎えた宴席の冒頭に河内守が能を舞ったこと記録されていますので、同人が文化面にも秀でた小早川一族の主要人物の一人であったことが伺えます。

萩町人裳掛氏と裳懸弥左衛門

ここで裳懸氏の系譜を見るために「閥閲録」に萩町人として現れる裳掛道説の記録を取り上げてみます[6]。 それによると道説の祖は河内守盛聡の次男采女正景利で、その子小右衛門の代に牢人となり、道説の代に医者となったと書かれています。 道説まで代々毛利氏家臣団への復帰を願い出ていたようですが、終に叶う事なく医師の道を選んだという事情があったようです。

系譜には高山主水が河内守嫡子新右衛門の子、裳懸弥左衛門として紹介されており、「今の高山安左衛門の祖」と記されていますので、主水以降、旗本高山氏を同族であると萩に在った裳懸氏も理解していたことがわかります。 弥左衛門については、年未詳の国貞神左衛門宛の小早川隆景書状[7]の文中にも「裳 弥左」の名前が現れますが、これについても主水であると思われます。

また、『吉川家譜』の伊予高尾城攻めの記録にも小早川家臣として裳懸弥左衛門の名前が見えます[8]が、その生年からも実際に四国攻めに従軍していた可能性は高いと言えるでしょう。 この他、「侍付立」の弥右衛門も弥左衛門の誤記、誤伝と考えられるかもしれません。

采女正景利については、その父河内守とともに元就の沼田訪問時に盃を受けたとする話が記されています。 主水が六郎を名乗っていたと伝わることと合わせて、当時の記録に残る六郎が盛聡の父新右衛門、次郎四郎が采女正景利の可能性が高いのではないでしょうか。

系譜上は高山主水が裳懸氏嫡流に当たると考えられることから座配書立で天正10年以降、常に主水と思われる六郎が采女允の上位に座していること、主水の生年と考えられる永禄10年の翌年に新(右)衛門が確認できることも妥当と考えられます。 全体でも最上位に近い位置にある裳懸殿は河内守あるいはその子で主水の父新右衛門(『寛政譜』によれば利家、あるいは盛英)と考えておきたいところです。

裳懸氏、高山氏関係略系図

裳懸盛聡―盛英?―盛聡―盛勝(寄合旗本、備中後月郡、上野新田郡で1000石)
    (利家?)  ―利永(旗本、下野都賀郡で450石)
    ―景利―小右衛門―某―某―道説(萩町人、医師)

軍記物にみる裳懸主水

『陰徳太平記』では、天正16年に輝元、隆景、広家が上洛した際のエピソードにその名が見えます[9]。 帰国直前の9月11日の宴の参加者として下記の小早川家臣8名が挙られますが(括弧内は筆者注)、そのひとりが裳懸弥左衛門であり、さらに包久内蔵允の名前も並びます。

  • 井上又右衛門(春忠)
  • 乃美右近太夫(?)
  • 椋梨平右衛門(弘平?)
  • 裳懸弥左衛門(盛聡)
  • 鵜飼新右衛門(元辰)
  • 包久内蔵允(景真?)
  • 桂宮内少輔景豊
  • 粟屋四郎兵衛(景雄)

ただし、輝元の上洛を実際に記した『輝元公上洛日記』[10]では隆景の家臣として名前が見えるのは井上又右衛門(春忠)のみで広家家臣についても今田中務少輔の名しか見えませんので、実際に彼らが隆景家臣として随行していたのかどうかを確認できません。 『陰徳太平記』の原型と言える『陰徳記』や『安西軍策』にはみられない記述でもありますので、『陰徳太平記』の成立時に組み込まれたものと思われますが、何かこれ以前の出典があったものでしょうか。

家康との関係

家康との関係は家譜が伝えるように毛利家を去った盛聡が、積極的に家康に近づいたと考えることはできそうですが、それ以前からの関係も想定できるかもしれません。 光成準治氏は、隆景そして秀吉の死後、秀元や隆景遺臣の処遇が毛利氏内部で大きな問題となったことを示されています[11]。

当初の秀吉の意向は隆景遺臣は秀秋に仕えさせることとし、秀元の処遇についても輝元と比較しても相当な厚遇であったようです。 しかし、完全な決着を見ないまま、秀秋に対する減封処理や秀吉自身の死によって混乱が生じ、徳川家康の介入も招いています。 輝元-石田三成、秀元-徳川家康という対立の様相を示したともされることから、隆景死後の混乱の中、輝元と三成の談合により三成が引き取った、あるいは引き取る話が持ち上がっていた隆景遺臣が存在するとのことです[12]。 そこから考えれば逆に、家康の介入時に隆景遺臣へも何らかの接触があったとしても不思議ではないと言えそうです。

当時は同様に宇喜多氏内部でも当主秀家と古くからの家臣団の抗争が勃発し、やはり結果家康の介入を招いています。 宇喜多詮家や、関東で蟄居となった戸川達安等は、家康に与し東軍として関が原にも参陣しています。 盛聡の家康臣従も徳川氏の側から見れば、毛利家、小早川家の内情に詳しい存在として重用された部分もあるのかも知れません。

まとめ

「侍付立」に見える裳懸主水が、後に幕府旗本となった裳懸弥左衛門盛聡であり、その小早川、毛利家臣時代についての史料を紹介しました。 裳懸氏の戦国期の詳細は不明ですが、小早川一族として、またその本家当主隆景を支えた勢力のひとつであったことは確かなようです。 そのような裳懸氏の当主が小早川氏、そして毛利氏も離れ徳川氏の家臣となるまでの真実はどこにあるのでしょうか。

盛聡の死からも遠くない『寛永譜』[13]にも関が原参陣の経緯は記されていますが、江戸へ下る際「此とき通路自由ならず」とありそれを信ずるのであれば関が原直前に家康に従ったことになり、多少の誇張があるとして、あるいは牢人として上杉征伐へ従ったことがきっかけとも考えられるのかもしれません。

注釈

  1. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 「小早川家證文」401 10月2日 小早川弘景置文案(『大日本古文書 家わけ 小早川家』)
  3. 『閥閲録』「95 金山清兵衛」9 天文23年10月19日 金山右京進宛 末長又三郎景道、裳懸河内守盛聡、乃美兵部少宗勝連署打渡状(『萩藩閥閲録』第3巻、1995年)、天正19年10月10日 椋梨殿宛 裳懸采女祐外二名連署知行渡状(『小早川家文書』158)、南木工助、井上春阿弥と連署しています。
  4. 「小早川家文書」473、475「小早川家座配書立」(『大日本古文書 家わけ 小早川家文書』)
  5. 「毛利家文書」403 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)、永禄4年3月26日からの元就、隆元父子の小早川氏訪問の記録。
  6. 『閥閲録』「巻160ノ2 萩町人 裳掛道説」(『萩藩閥閲録』第4巻、1995年)。ただし系譜については補注が記されていることから刊本時に『譜録』から補われた内容と思われます。
  7. 『閥閲録遺漏』「巻2ノ2 国貞平左衛門」27 7月11日 国甚左宛 隆景書状(『萩藩閥閲録遺漏』、1995年)に「包新」、「裳弥左」と相談するよう書かれています。
  8. 『大日本史料』天正13年7月17日の項(11編17冊188頁)「吉川家譜」より
  9. 『陰徳太平記』「巻75毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」(米原正義校注『陰徳太平記』正徳2年板本 第6巻、東洋書院、1984年)
  10. 平佐就言『輝元公上洛日記』(村田峯次郎校『長周叢書』20)、国立国会図書館 近代デジタルライブラリー で閲覧可能。
  11. 光成準治『関ヶ原前夜』(日本放送出版協会、2009年)
  12. 光成準治『中・近世移行期大名領国の研究』「第2部 権力構造と領国支配 第7章 毛利秀元処遇・小早川隆景遺領問題と領国支配」(校倉書房、2007年)で、(慶長3年)9月8日 石田三成宛 毛利輝元書状を取り上げられています。高尾又兵衛、神保源右衛門が三成に仕えたことは本多博之氏が明らかにしているとしていますが、先の輝元書状を収めた『譜録』「曽祢孫左衛門高英」では、曽祢景房の弟高光は三成に従い関が原で討ち死にしたと伝えており、これが同書状が曽祢氏に伝わる所以ではないでしょうか。
  13. 『寛永諸家系図伝』平氏良文流 高山氏(『寛永諸家系図伝』第6巻、続群書類従完成会、1983年)

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