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村上隆重の死 [史料紹介]

笠岡村上氏の初代とも言える村上隆重について、津々堂氏によって 「分かりました・・村上隆重の没年 - 津々堂のたわごと日録」 という記事が掲載されています[1]。 この内容には個人的には異議があるため、取り上げてみたいと思います。

景広の死

隆重の子、景広は細川家で1万石を与えられその家臣として寛永4(1627)年、73歳で亡くなります。 ところで、これに関連し、津々堂氏は以下の記事から翌年景広の父隆重が亡くなったものとされています。

細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項に次のような記載がある。

■村上隆重葬儀 村上景則母危篤

「椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ候ハヽ、可被参由、申渡候事」

詳しくは冒頭に示した元サイトをご覧いただくとして、この「日帳」の記事[2]から津々堂氏は以下のようにまとめられています。

  • 景広とともに父隆重も豊前に
  • 景広は寛永4年没
  • 隆重はその翌寛永5年没

この隆重の死について検討を行ってみたいと思います。

村上隆重についての検討

まず、隆重の生年ですが、一つはその名前から大内義隆の偏諱を受けていること、また天文10(1541)年前後の能島村上氏の内紛で武吉擁立に尽力したとあることから、少なくとも永正年間(1504〜1521)には生まれていたものと考えられます。 その死没が景広の死の翌年であった場合、その没年は100歳を大幅に上回るもので、現実感はありません。

また、「村上家文書調査報告書」解題では隆重が永禄末年頃までには亡くなっていたと解釈しています[3]。 毛利氏からの笠岡給付に関する村上少輔太郎宛の書状の年代比定の問題でもあるのですが、山内譲氏との間での時期を巡る見解の相違が起きています。 この書状の年代が隆重生存の傍証とはなりますが、山内説を採った場合でも天正年間以降、隆重の生存を示す一次史料はないと言ってもよいでしょう。

それでは先の記事が意味するものはなんでしょうか。 このヒントは豊前中津ではなく、肥後八代の街に残されていました。

松寿山久巌寺

細川氏は肥後加藤家の改易後、肥後へと移封されますが、その際に隠居である細川三斎は子の立孝と共に要衝八代にあり、豊前時代の中津同様独自の支配を展開します。 三斎に何を気に入られたのか、中津衆であった景則はそのまま八代での家老として三斎に仕えていたようです。 忠利と三斎、あるいはその家臣団の間での軋轢もあり、三斎の死後、景則は最終的には熊本藩を離れることとなります[4]。

そして、八代の市街に今も残る松寿山久巌寺は村上景則により開かれた寺であり、その寺名は父景広の法名「震龍院久巌浄信」から採ったものとしています[5]。 父景広の菩提を弔うために開かれたこの寺のルーツは中津にありました。 つまりは、景則は父の死の一周忌前後に久巌寺を建立したのではないでしょうか。 久巌寺は村上氏が熊本藩を離れたことなどもあり寺領を失い、一時は震龍寺と改められたこともあったようです。 寺名が戻った理由として、大風など災変が続いたことにより許しを得て元に戻したと書かれています。

ただし、景則が建てたのは震龍寺であり、名和顕興(真龍寺殿久巌顕興大居士)との関係から寺領が与えられたとするなど、伝承には混乱も見られるようです。 村上系図でも景広の法名は確認できないため、久巌の文字が偶々一致したためなのか、中津からの移転伝承自体が誤りである可能性もありそうです。

もう一度「日帳」

ここで「日帳」の記載に戻り、その記述を確認してみます。

まず、日帳の記事は寛永5年9月28日のものですが、能島村上系図では景広の没日を寛永4年10月1日としています[6]。 この没日が正しいかどうかの問題はありますが、この記載がまさに一周忌の年忌であった可能性が高いと言えるでしょう。

また、重要な点として、隆重が八郎左衛門を名乗ったとする史料は存在しないのではないかと思います。

そして、同じ「日帳」の中で寛永5年のいくつかの記事に村上八郎左衛門についての記載が散見されます[7]が、これらの記事は、「八郎左衛門遺物が皆川、林へ渡された(1/27)」「景則が八郎左衛門の遺物を書き出し、屋敷は収公し、武具については景則に遣わされた(1/28)」「八郎左衛門遺品の刀を研がせた(2/6)」「八郎左衛門の屋敷へ清田七介が移る(2/19)」という一連の記事で、その内容はいずれも亡くなった村上八郎左衛門への対応と言えるでしょう。 1月27日に景則が忠利へ相続の御礼を申し上げたこと[8]により、相続関連の事務処理も進み始めたものとも言えそうです。 このように「日帳」に現れる村上八郎左衛門は一貫して景広であると理解できるかと思います。

そもそもは県史編纂時の見出し採録の誤りであると思われ、このような誤解が生じうる要素はないだけに不思議な話ではあります。

もう一点、この記事でその年忌を今井で行う事となっていたようですので、久巌寺が建立されていたのであれば、八代での伝承にある中津ではなく、正確には中津領内ではある今井(現福岡県行橋市今井)に当初建立されたのではないでしょうか。

なお、記事中で触れられている景則母は、椋梨景良娘と伝わっています[9]。 日帳に現れる椋梨半兵衛との関係は不明ですが、やはり景広の縁者として豊前へ来たものでしょう。

加えると「今井」は永禄年間に村上水軍を始めとする毛利方の水軍が大友水軍を撃破した今井かと思われます[10]。 簔島などにより生じた地形が舟だまりとして適しており、この場所を村上景広が給付されていたことは正に水軍の面目躍如と言えるのではないでしょうか。

行橋浄喜寺

と、ここでひとまず話が落ち着いたかと思ったのですが、「今井」の地名に絡む一つの問題を見落としていたことに気づきました。

中津から八代へと移転した伝承のある寺院の一つに真宗寺院の浄喜寺があります。 元は今井に存在する寺院で浄喜寺は明応4(1495)年に村上水軍の一人、村上壱岐守良成によって今井に開かれたという由緒を持っているようです[11]。

当時は中津にも寺を開くなど[12]、住持村上入道良慶大僧都は細川忠興とも良好な関係にあったものでしょうか。 この良慶が細川家の肥後移封に合わせ、八代へ来住し、やはり浄喜寺を開いています。

これについて、八代市史が掲げる系図では、隆重、景広と続いて、そこに七郎右衛門元信(良慶)を置くものとなっていますし、少なくとも良慶自身の素性についても小早川、毛利に仕えた後、黒田長政に仕えるも、慶長10年に三斎の誘いで豊前に赴いたとするものが掲載されています。 寺歴からは考え難いのですが、この辺は村上景広や福岡藩を出奔した後藤又兵衛などの伝承が折混ざったものとなっているように見受けられます。

いずれにせよ、景広、景則の給地であったからではなく、「今井」での弔いが浄喜寺で行われるものであった可能性がでてきたと言えるかもしれません。

まとめ

肝心な隆重の没日については不明としか言えませんが、活動時期の状況から見ても遅くとも天正年間には亡くなっていたのではないでしょうか。 小倉藩「日帳」に見える寛永5年村上隆重没とするものは見出しの誤りであり、原文のとおり八郎左衛門景広の弔い(年忌)であるはずです。

一方、子の景広は小早川隆景、毛利輝元、細川忠興と名だたる大名に重用され、最後は家中屈指の1万石を得るという形で戦国時代を生き抜きました。 その死を弔った菩提寺が子の景則によって建てられたのかもしれませんが、その点が今となってはハッキリしないことは若干残念ではあります。

また、細川氏の肥後への移転の陰で村上氏と関連の深い諸寺の伝承が錯綜している様子も見て取れました。 村上水軍と浄喜寺がどのような関係にあったものか、これについては今後の課題かもしれません。

注釈

  1. 津々堂氏は熊本藩関連の資料が豊富に掲載されている肥後細川藩・拾遺運営者です
  2. 小倉藩「日帳」寛永5年9月28日条(『福岡県史』近世資料編 細川小倉藩2)
  3. 『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』(愛媛県今治市教育委員会)
  4. 「屋代島村上文書」 204 北畠正統系図(『宮窪町史』)によればその後子孫は能島村上氏本家のある周防屋代島へ戻ります。
  5. 『八代市史』第4巻
  6. (4)に同じ
  7. 小倉藩「日帳」寛永5年1月27、28日、2月6、19日各条(『福岡県史』近世資料編 細川小倉藩1)
  8. 「日帳」寛永5年1月27日条((7)に同じ)
  9. (4)に同じ
  10. 豊前蓑島合戦については以前とりあげています。「豊前今井元長船戦図」の「今井」がまさにそれです。
  11. 京築まるごとナビ 真宗大谷派 浄喜寺
  12. 宝蓮坊  浄土真宗大谷派 獅々吼山 中津市寺町

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