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長門内藤氏の人々(久太郎の場合) [人物]

先に内藤元盛(佐野道可)が関わる『佐野道可事件』についての堀智博氏による説を紹介しました。

その中では取り上げられていない人物ではあるものの、重要な関係者であると考えられる内藤久太郎について、ここで独立して考察してみます。 元盛のその後を追う上で重要な人物と考えられるのが久太郎ですが、内藤家の系図等では確認できない存在でもあります。

人物関係

系図上には直接は姿の見えない久太郎ですが、まずその前提として、戦国末から近世初頭の内藤氏の略系図を以下に示します。

内奥興盛—隆時—隆世
    —隆春—元家=元忠
           :
       ————元忠
       —綾木大方
        |——元珍
        |——元豊(粟屋)
    —女子 |——福原元房妻
     |——元盛
   宍戸元秀

内藤氏の系図上では同時代に久太郎を名乗る人物を確認できません。 興盛、隆世などは彦太郎を用いていることから内藤氏代々の名でもないようです。

継続的に名前が確認できる久太郎ですが、結論としてはこの久太郎こそ孫兵衛元珍であると考えたいところです。

分限帳に見える久太郎

久太郎の名前が見え始めるのは天正末年から文禄初頭とみられる各種分限帳類であるようです。

  • 「八箇国分限帳」[1] 1089石
  • 「朝鮮国御渡海之時御当家御旗本組人数」[2] 1173石
  • 「天正十七年御馬廻分限帳」[3] 1173石9升3合

同じ分限帳において内藤将(為)右衛門が5400〜7400石程度、内藤隆春が2500程度の所領を得ています。 「八箇国分限帳」では長門美祢郡に全所領が存在しており、この時点では内藤領の一部が久太郎領となっていたようです。 なお、この美祢郡にある「綾木」に由来して元盛妻で元珍母である女性は「綾木大方」と呼称されています。

続いて、分限帳以外に見える久太郎を取り上げます。

久太郎の実像

慶長5(1600)年の関ケ原合戦に際に楊井氏に宛てた久太郎の書状が伝来していたようです[4]。 その内容から楊井三左衛門の討死を楊井新五左衛門へと伝えるものとなっています。 西孫兵(衛)の証言を記載していることや、同日の秀元から出されたとされる頸注文[5]から吉見、内藤、多賀山等分は別途提出する旨の記載があることから、秀元の指揮下にあったものでしょうか。 楊井氏はこの久太郎を隆春嫡男と記録していることから、『毛利氏三代実録考証』では該当する人物が確認できない旨を「論断」において「猶他日可考之」として記しています[6]。 これは元盛の嫡男を誤ったものか、あるいは隆春の嫡男という形で内藤領の分知が行われていた可能性もあるのかもしれません。

その後、慶長10(1605)年の毛利氏家臣団の起請文においても内藤久太郎の名は確認できます[7]。 一方、ここでは内藤元盛と考えられる人物の署名は確認できません。

直後の慶長11(1606)年の江戸城普請役の記録(以下「組帳」)[8]では、宍戸元続の組で1350石の課役を割り当てられており、これが当時の久太郎の所領であると思われます。 これに続く時期の伊豆から運ぶ石舟に関する秀就書状では久太郎を含む下記7名が宛先となっています(括弧内は筆者注)[9]。 その本文に「各組頭之者共」と表記があることや、並記された人名からも現地で指揮にあたる上級家臣の1人であったと言えそうです。

  • 山 九郎兵(山内九郎兵衛尉)
  • 内 久太(内藤久太郎)
  • 和 勝兵(和智勝兵衛尉)
  • 林 志摩(林志摩守)
  • 杉 吉兵(杉岡吉兵衛尉)
  • 志 五郎左(志道五郎左衛門尉)
  • 祖 二郎右(祖式次郎右衛門尉)

この後、慶長17(1612)年の江戸城普請[10]では組頭として内藤孫兵衛(元珍)の名前が確認でき、一方、以降久太郎の名前は現れません。 もっともわかりやすい説明が内藤元珍が久太郎から孫兵衛尉へと名乗りを変えたするものではないでしょうか。

元珍の周辺

元珍は元和元年に33歳で亡くなったとありますので、天正11(1583)年の生まれとなるものかと思われます。 文禄元(1592)年であれば数えの10歳、慶長元(1596)年でも数えの14歳となりますので、実父が存命中にこのような所領配分がなされたとすると相応の事情があったと考えられそうです。 久太郎=元珍とした場合、その年表は下記のようになります。

西暦年齢事項
天正11年 1583 1出生
天正末年頃159210『八箇国分限帳』で約1000石(内藤久太郎)
文禄末年頃159614朝鮮への軍役1172石(内藤久太郎)
慶長5年 160017秀元配下の立場で楊井新五左衛門宛書状(内久太)
慶長10年 160522毛利家臣団の起請文に連署(内藤久太郎)
慶長11年 160623江戸普請役(内藤久太郎)
慶長17年 161229江戸普請役(内藤孫兵衛)
元和元年 161533生害(内藤孫兵衛)

先に紹介した通り、蔚山での合戦後に出された感状[11]に内藤修理の名はあるものの、久太郎の名前は見えません。

他に久太郎の候補者としては、隆春の実子で後に別家を建てる元家が上げられます。 元家については関ケ原合戦以前に善兵衛の名義宛で周竹(隆春)書状が残されています[12]。 また、慶長10年の家臣団起請文にも内藤善兵衛尉が見え、「組帳」にも「内藤善兵衛尉 182石」が確認できます。 これらから久太郎は元家とは別人であると言えるでしょう。

この他、系図等に現れない人物が久太郎であった場合、慶長年間の一時期、この人物が内藤氏を代表していたものの、元珍へとそれを引継いだ、ということになります。 どのような系譜関係であれこのケースではさらに複雑な状況に内藤氏が置かれていたと考えなければならないのではないでしょうか。

まとめ

長門内藤氏の有力者と考えられる久太郎の正体について検討してみました。 個人的には内藤元盛の子、元珍であると考えています。 ただ、久太郎=元珍である場合、実父元盛が生存中にも関わらず10歳前後に独立した給領地を持つ存在として出現する点には何らかの、特に内藤元盛に関わる特別な事情があったものと考えられそうです。

注釈

  1. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  2. 「朝鮮国御渡海之時御当家御旗本組人数」(毛利家文庫「叢書」無尽集「軍利」、山口県文書館所蔵)
  3. 『天正十七年御馬廻分限帳』(山口県文書館所蔵、デジタルアーカイブ
  4. 『閥閲録』「巻106 楊井神平」(慶長5年)8月25日 楊 新五左衛門宛 内久太書状
  5. 「毛利家文書」伊勢国津城合戦頸注文(慶長5年8月25日)(『大日本古文書 家わけ 毛利家』376)
  6. 『毛利三代実録考証』慶長5年(『山口県史 資料編近世1下』)
  7. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家』1284)
  8. 慶長10年12月23日『江戸御普請組帳』(『東京市史稿 皇城編』(「毛利家記録」よりと記載))。内藤久太郎は1350石、但17石余とあり、これは元続組では宍戸元続に次ぐものです。全体でも一門衆を除けば、益田親子、山内、柳沢、佐世、井原に次ぐ課役を担当しており、有力家臣の1人であると考えられます。
  9. 慶長11年3月25日 毛利秀就書状(『東京市史稿 皇城編』(「譜録 益田頼母」よりと記載))。伊豆からの石材運搬の遅れが問題となっていたようです。
  10. 慶長17年1月23日、入江元親、金山清兵衛宛 毛利秀就袖判千石夫付立て(『萩藩閥閲録』第2巻、54 入江七郎左衛門)。この時も慶長11年同様に山内、志道、祖式なども組頭を務めています。
  11. (慶長3年)正月25日 豊臣秀吉朱印状(『大日本古文書 家わけ 毛利家』914)
  12. 『閥閲録』「巻99内藤小源太」

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