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長門内藤氏の人々(問題設定編) [人物]

2013年1月に刊行された山本博文氏らによる『偽りの秀吉像を打ち壊す』[1]に、堀智博氏による「毛利輝元と大坂の陣」[2]と題した論が掲載されています。 佐野道可事件を中心とした大坂の陣前後の毛利家の動向を取り上げたもので、堀氏はいくつかの史料を元に佐野道可事件について「輝元の関与はなかった」と指摘されています(以下「堀説」)。 その興味深い内容と、一方で長門内藤氏について未解明な部分と、それを考慮した場合の堀説で未検討の部分を簡単にまとめてみました。

端緒

堀説では事件のポイントの一つである「佐野道可は輝元が大坂へ派遣したものだったのか」という点について、明瞭に否定の立場をとっています。 否定の根拠として道可の子、内藤元珍、粟屋元豊兄弟が差し出した書状案文[3]を取り上げており、その記載を中心に以下の点が示されました。

  • 内藤孫兵衛・粟屋図書書状案文の記載から元盛は義父内藤隆春と不和になり天正17年に毛利領国を離れたと解釈
  • 『毛利氏八箇国御時代分限帳』に元盛の名前が存在しない
  • 隆春実子の誕生を想定した元盛起請文の存在[4]

これらにより、牢人となった元盛が輝元の命で大坂入城することはない、と結論づけられていますが、一方で以下の部分などは今回の堀説で説明がなされていないようです。

  • A. これまでの内藤孫兵衛・粟屋図書書状案文の評価
  • B. 天正17年以降、内藤元盛(佐野道可)は大坂入城までどのような状態にあったのか
  • C. 天正17年以降、長門内藤氏はどのような状態にあったのか

この案文については該当史料は現在毛利家文庫において「佐野道可一件」として保管されています。 福原広俊関連のもの、元盛の実弟宍戸善左衛門(景好)、義弟内藤左衛門尉(元忠)、あるいは板倉勝重から毛利輝元へ宛てたものなどが含まれるようです。 その主題「佐野道可」に関連する文書を一括してまとめられているものですが、堀説でもこれがいつ頃まとめられたのかは不明としており、一方で、これまでの研究で佐野道可事件研究でのこれら史料についての評価についても触れられていません。 また、時代を遡り萩藩が編纂した『毛利三代実録考証』の関連の条項[5]でもこれらへの参照は見られないことから、内容だけではなく経緯についても検討されるべき史料ではないでしょうか。

これらの点を確認する上で、基本的な情報を以下にまずは示してみたいと思います。

内藤修理

まず、大坂に入城し、戦後切腹したと伝わる人物が何者であるのか、の再確認です。

宍戸氏の系図等では元盛について、内藤氏を継ぎ、修理を称したとしています。 ただし、「内藤修理」名義で発給された文書は今のところ確認されていないのではないかと思います。

修理生存中の記録としては、宍戸民部(元真)が慶長20年4月に毛利氏家臣山田元宗に宛てた起請文[6]に「今度修理事大坂御城罷出之通其聞候」「修理事右企於実正者以来兄弟之間を切」との文言が見えます。 ここから大坂へ篭城した内藤修理が宍戸民部の兄、元盛で間違いないとは言えそうです。

『八箇国分限帳』

先に紹介した通り「堀説」では『八箇国分限帳』(以下「分限帳」)に内藤元盛が存在しない事を取り上げていますが、これについて確認してみます。

まず、堀氏が指摘するようにこの分限帳に内藤修理あるいは元盛の名乗りとして知られる人名の記載はないようです。 逆に当時の長門内藤氏に該当する人物は誰か、を確認するため、同分限帳で内藤を称する人物のうち、大身の人物を下に示します[7]。

名前    禄高 所領所在地
将右衛門 5411長門美祢、厚狭
隆春   2631周防佐波
与三右衛門1589長門豊田、安芸高田、佐西、備後神怒、周防佐波など
久太郎  1089長門美祢
中務    984安芸高田など

この中で、長門内藤氏系は防長に所領が限られる将右衛門、隆春、久太郎の3名と考えられます(与三右衛門は安芸長田内藤氏で当時輝元の奉行人であった元栄、中務は同じく長田系の元泰)。

当時の内藤氏の根拠地は長門厚狭郡の荒滝山城と考えられ、これに該当するのは長門国厚狭郡に所領を持つ内藤将右衛門となります。 所領の大きさからも有力な国人クラスの人物であると考えられ、この時点で長門内藤氏の代表者は将右衛門と考えられるのではないでしょうか。

一方、隆春の所領が周防佐波郡に限られることが確認できますが、この地域は隆春の隠居領と伝わり、当時の小古祖村に墓も現存します[8]。 この分限帳から内藤氏を論じる場合、単に元盛の存在が見えない、ではなく、隆春以外の2名、将右衛門、久太郎は何者かの検討が必要なのではないでしょうか[9]。

再度、内藤修理

先に内藤修理による発給文書はみられないのではないか、と書きましたが、一方で内藤修理の名前が出る文書は存在するようです。

慶長2(1597)年に発生した蔚山城を巡る攻防戦では同城へ篭城した毛利氏の部隊が多数存在します。 戦後にその毛利氏の家臣団へも秀吉からの感状が出されています[10]が、この宍戸備前守(元続)に始まる27名のうち、8番目に「内藤修理亮」の名前が見えます[11]。 ここからは、少なくとも慶長2年当時、内藤修理は毛利家中にあったと豊臣政権から認識されているということになります。

これに関連して、朝鮮へ出陣した毛利家中の部隊編成についての光成準治氏の論[12]も参考となります。 「朝鮮国御渡海之時御当家御旗本組人数」[13](以下「組人数」)に記載された内容から元盛を実兄の宍戸元次組に属したと紹介されており[14]、久太郎は同じく宍戸組、隆春(周竹)については安国寺組に属しています。 以下が同史料に記載された軍役ですが、将右衛門、修理大夫を元盛と見た場合、単純な比較では「分限帳」の記載とは三者の間でその比率も変化がみられます。

  • 内藤修理大夫:7398石
  • 内藤久太郎:1173石
  • 周竹(内藤隆春):1869石

また、『天正十七年御馬廻分限帳』[15]として伝わる分限帳にも内藤氏の姿が見えています。 同内容を禄高順に写し直したもの、と思われるのが『豊浦藩旧記』「輝元公御時代分限帳」[16]の後半部分、「馬廻衆」以下の記載でこちらから関係者を抜き出してみます。

  • 内藤為右衛門 6598石2斗8升
  • 内藤久太郎 1173石9升3合

元盛が想定される人物は為右衛門としますがこれは先の将右衛門と同一人物と考えてよさそうです。 また、隆春(周竹)の名前は見えません。 久太郎分は先の「組人数」に一致しており、為右衛門は先の内藤修理大夫分と800石の差があります。 ただし、この分限帳自体は仮に同時代から来歴したものであってもやはり文禄年間以降のものと思われます[17]。

もう一つ、「福原家文書」に含まれる興味深いメモ書き(?)[18]にも「隠居に可召置哉之衆」の1人として「内藤修理」の名前が確認できますが、こちらには久太郎の名前は現れません。 その後毛利家を離れる多くの隆景家臣の名が含まれることからこれが当時のものであった場合には慶長2年から6年の間に記載されたもの、と考えられますが、「隠居」の文言は関ケ原合戦後の状況を示しているのではないでしょうか。

内藤久太郎

元盛、隆春に続き現れる第三の人物、久太郎ですが、この人物は元盛の子、隆春の孫にあたる後の内藤元珍であると考えています。 以前、今回取り上げた史料とは別の内容からこの久太郎を元盛の子、元珍であると想定しました。 この詳細についてはまた別項にて取り上げます。

まとめ

「堀説」において、内藤元盛大坂入城への毛利輝元の関与を比定するとされた材料については、これを根拠とするには不十分なものではないかという点を示してみました。 「堀説」の主張にある内藤元盛が天正17年に毛利領国を離れたという点は現状でも否定できるかと思いますが、これは「佐野道可事件」への輝元の関与有無いずれかを示すものではありません。

ただし、長門内藤氏の所領については元盛、隆春の他、久太郎へも分割された形跡がみられ、しかもこの内藤久太郎を後の元珍であると考えた場合には、(単に隆春実子への分知を前提とした)隆春隠居領の分割だけではなく、元珍がまだ幼い内に所領分割がなされていたということになります。 内藤氏における何らかのトラブルがこのような所領分割に繋がったと考えることはできるかもしれません。

注釈

  1. 山本博文、堀新、曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』(柏書房、2013年)
  2. 堀智博「第九章 毛利輝元と大坂の陣」(『偽りの秀吉像を打ち壊す』)((1)収録)
  3. (2)の記載より「佐野道可一件」(元和元年)7月20日 内藤孫兵衛・粟屋図書書状(山口文書館所蔵)を指すものと思われます。
  4. 『閥閲録』「巻99 内藤小源太」74 12月28日 内藤元盛書状(『萩藩閥閲録』第3巻、1995年)
  5. 『毛利三代実録考証』元和元年6月6日〜10月19日(『山口県史 資料編近世1下』)
  6. 『毛利家文書』1223 慶長20年4月26日 山田吉兵衛宛 宍戸民部起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)
  7. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  8. 『寺社由来』(『防長寺社由来』第2巻「徳地宰判」)において「小古祖村 内藤隆春廟所」の記載があるほか、「八坂村妙寿院」についても隆春が輝元母である内藤氏の牌所としたとの記載がみられます。
  9. 光成準治『中・近世移行期大名領国の研究』「第二部 権力構造と領国支配 第五章 豊臣期における毛利氏検地の進展と領国支配」(校倉書房、2007年)では、同「分限帳」から得られる人名をピックアップし、諱で整理されていますが、内藤将右衛門を元盛として扱われています。
  10. (慶長3年)正月25日 豊臣秀吉朱印状(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』914)
  11. 『閥閲録』「巻32口羽衛士」 慶長3年正月25日 豊臣秀吉感状(『萩藩閥閲録』第1巻、1995年)も同内容です)
  12. (9)に同じ「第二部 権力構造と領国支配 第四章 豊臣期における毛利氏の軍事力編成と国人領主」
  13. 「朝鮮国御渡海之時御当家御旗本組人数」(毛利家文庫「叢書」無尽集「軍利」、山口県文書館所蔵)
  14. 原史料では「内藤修理大夫」との記載となっています。同じく内藤隆春は「周竹」との記載です。
  15. 『天正十七年御馬廻分限帳』(山口県文書館所蔵、デジタルアーカイブ
  16. 「輝元公御代分限帳」(「豊浦藩旧記 第25冊」)(『下関市史』の資料編1、1993年)
  17. 表題は奥書に天正17年づけの奉行人連署状があるためと思われますが、例えば三尾四郎兵衛の名前が見えるので井原元尚の周防三尾(三丘)への移動後であり、また、口羽十郎兵衛、口羽久三郎の名前もあることから文禄元年の春良没後であることなど、これらから少なくとも文禄年間以降のものと考えられそうです。
  18. 「福原家文書」第1類 重書 21 御什書(一) 5(『福原家文書』上巻、宇部市立図書館、1983年)

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