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祢津を歩いて [遺跡]

信濃国小県郡祢津(ねつ)、現在の長野県東御市祢津地区は江戸時代の寛永年間以降を通じて旗本松平氏の所領でありました。 この松平氏は徳川家康の異父弟で元は久松氏であった松平康元につながる家系です。 旗本としての初代である忠節は大垣藩主忠良の庶長子で、その妻了照院が以前にも 紹介した とおり、当時萩藩士であった宍戸景好の娘かと思われます。

また、祢津は中世には海野一族の祢津氏の支配下にあった場所で中近世の文物が多く残されています。 今回はこの祢津地区に今も残る江戸時代の歌舞伎舞台での平成24年4月29日の公演に合わせて現地を訪問しました。 この日は公演だけではなく満開の桜と好天に恵まれるというすばらしい一日となりましたが、ここでは祢津地区の現況を紹介してみます。

以下で紹介する各遺跡の説明については『祢津地区 ふるさとをたずねて』[1]、『東部町誌』[2]の記述に依っています。 なお、了照院の婚姻を巡る注目点については別項にて改めて整理してみたいと思います。


より大きな地図祢津東町歌舞伎 を表示

祢津日吉神社と東町歌舞伎舞台

旧祢津領には江戸時代の歌舞伎舞台が2つ、現在も残されています。 祢津領の陣屋が置かれたのは西宮地区であり、ここにひとつの舞台が、そして隣接する東町地区にもうひとつの舞台が残されています。 この東町舞台の建設は文化14(1817)年、ただし地区の遺物に「寛延4年(1751)銘「踊大小入」の木箱が残されている」[3]とのことから歌舞伎公演自体がその頃までさかのぼる可能性があるとのことです。

この歌舞伎舞台は祢津日吉神社に隣接して建てられていますが、その建立は元禄、宝永の頃と推定されており、これは祢津領主としては2代忠勝の頃です。 今回の歌舞伎はこの舞台で上演されたものですが、これは10数年前から公演が復活したもので、毎年4月29日前後、日吉神社の祭礼と合わせて公演が行われているようです。 歌舞伎の公演自体は地元の「東町歌舞伎保存会」、「祢津小学校歌舞伎クラブ」によって行われており、2012年の演目は子供歌舞伎が「義経千本桜」、保存会が「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段」となっていました。

この東町の歌舞伎の詳細については下記のサイトをご覧ください。

写真】日吉神社の参道を見上げて。

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【写真】東町歌舞伎。

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大日堂

祢津日吉神社、東町歌舞伎舞台から祢津地区の山裾沿いにいくつかの寺社が連なります。 そのうちの一つ、近隣の大日堂は貞享年間の建造と推定されています。 参道に立つ石塔にも元禄12年の文字が見えるなど、古いものであることが確認できます。

【写真】大日堂の建物と参道に残る古い石碑。

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長命寺

祢津日吉神社から大日堂までは集落より若干高い場所に立地していますが、そこから西町方面へ街中へと降りた場所に位置するのが長命寺です。 東町地区に残る真言宗の寺院で、平安時代中期、天延3(975)年の創建、鎌倉時代の現地への移転を伝えることから、この地を支配した祢津氏との関係も深いものと思われます。

御姫尊(おひめさま)の巨石

西宮地区の北方、山麓を少し上った位置に存在するのが御姫尊の巨石です。 松平忠節の妻、了照院のため忠節が石を運ばせたとも、堂宇を建てて自身の病の平癒を祈願したとも、その死後に埋葬された場所とも伝わります。 この巨石伝承の存在こそが、筆者を祢津へと結び付けたと言えるでしょう。

この巨石のある位置から若干下った平地に宝筺印塔があり、これは松平氏の供養塔のようです[4]。 この他、同地に五輪塔も残ります。

【写真】御姫様裏手より。左に見える建物が岩の正面に建てられたお堂となります。

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定津院

室町時代に祢津氏により創建された曹洞宗の寺院で、江戸時代にも幕府から寺領を与えられています。 祢津の松平氏とも関係が深いようですが、本堂には「源忠順」が書いた扁額が残ります。 忠順は祢津松平氏ではなく、上田藩主の藤井松平忠順であると思われ、隣接する上田領との関係も推し量れます。

また、このほか松平氏縁の寺院としては忠良の法名にちなむ嘯月院が存在しましたが、現在は廃寺となっています。

【写真】定津院を正面より

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祢津健事神社と西宮歌舞伎舞台

もう一つの歌舞伎舞台も西宮の祢津健事神社境内に位置しています。 こちらの舞台は文化13(1816)年、東町の舞台に1年先んじて建設されています。

【写真】健事神社

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【写真】西宮舞台はこの日使用されないため戸が閉められたまま。

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このような舞台が複数残されているのは、祢津が特に歌舞伎が盛んであったのでしょうか。 あるいは祢津の地が北国街道から外れた位置にあることから、明治以後にあまり開発が進まず、古い寺社とともに歌舞伎舞台も残された、とも考えることができそうです。

祢津陣屋

祢津の西宮地区におかれた祢津領の陣屋跡です。 現在では土塀の一部と門がひとつ残るのみで、基本的に私有地となっているものと思われます。

少なくとも寛永7年までにこの地に行政を司るための陣屋が成立したことは確かなようです。 また、近隣にかつての祢津氏居館があったと伝わり、集落西側にあたる背後には城山と称されるかつての祢津氏の城跡が控えています。 古くからの祢津支配の拠点をなぞる形で立地した陣屋であると言えそうです。

山の神

東町舞台から若干離れた位置にある「山の神」は大山祇神を祀ったものであると紹介されています。

「えんぎ場」の地名が残ることから、ここに残る小屋はさらに古い歌舞伎舞台であったのではないかとも言われているようです。 写真で背後の壁がなく吹き抜けとなっているのは、借景のための仕掛けであろうとのことです。

【写真】山の神に残る舞台?

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祢津の巫女

江戸時代、祢津の地は「歩き巫女」と関わりの深い地としてして知られています。 祢津領の行政上も彼女らのもたらす文物や情報は祢津にとって他領との差別要因足り得たのでは、と思われます。 明治以後、その存在は消えてしまいますが、今もこの巫女たちの墓が地区内に残っています。

まとめ

平安、室町へとさかのぼることができる古寺を含む多くの寺社群が残るのが現在の祢津の地と言えそうです。 特に貞享~元禄年間にかけての由緒を伝えるものが多いのは陣屋が置かれたことで江戸の繁栄と繋がる何かがあったものでしょうか。

ここまで書いてから、というのもありますが、今回紹介した場所の写真も多く掲載されているこちらのブログも紹介しておきます。

アクセス

最後に、この祢津地区への公共交通機関によるアクセスを紹介しておきます。 高速バス以外では長時間の徒歩を伴うものとなりますので、ご注意ください。

高速バス

公共交通機関では祢津地区のすぐそばに位置する上信越道の東部・湯ノ丸SAに停車する高速バス利用が便利です。 上信越道はほぼ祢津地区の南端付近を通過する位置にありますが、ICならびにSAが設置されており、主に池袋方面への路線が停車しています。

東京方面からは下車のみ、東京方面行きは乗車のみのバス停ですので、東京方面からのアクセスに限定されます。

田中駅から

列車でのアクセスはしなの鉄道田中駅が最寄となります。 千曲川に沿うように東西の方向にしなの鉄道が走っていますが、この田中駅から北上する形で高度を上げて行くと祢津地区へと到達します。

上信越道を越え、およそ4km弱の道のりで祢津へと到達します。 田中駅から祢津地区へのバス路線も存在しますが平日のみの運行です。 駅前からのタクシー利用も可能でしょう。

注釈

  1. 『祢津地区ふるさとを訪ねて : ガイドブック』(祢津地区ふるさとを訪ねて刊行編集委員会 編、2009年)
  2. 『東部町誌』(1990年)
  3. 祢津東町歌舞伎
  4. 前部に康元、忠良、忠節の法名が刻まれており、側面にも了照院他の法名が見えます。側に立つ石碑には明治の年号が刻まれていますが、この供養塔もさほど時代が溯るものではないのではないでしょうか。

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