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能島分限帳「行方覚書」(下) [史料紹介]

引き続き能島村上氏の「能島家家頼分限帳」[1]から読み取れるものを見ていきます。

注目できる記事

来島村上氏との婚姻

系図上では武吉の妻として、前妻、後妻いずれも村上通康娘とされています[2]。 これに関連する記載が中間弥吉について「来嶋様より妙輪様御供仕候」、中間惣兵衛についても「来嶋様より後也、妙三様ニ御供仕候」と2ヶ所見られます。 これらから、武吉の前妻「妙輪様」、後妻「妙三様」が来島村上氏から来たと認識されていたことになります。

なお、来島村上氏との関係では高橋五藤右衛門が「右廣嶋引取、後来嶋左門様ニ居申候事」とあります。 後に久留島藩へと出仕したとも読めますが、左門を名乗る人物はむしろ久留島藩初代藩主長親の庶兄左門通則が知られますが、慶長5年に亡くなったと伝わります[3]。 同じく福島家中の村上彦右衛門吉清と勘違いしたのか、あるいは左門通則の後継者が福島家中に存在したのでしょうか。

田坂茂右衛門

中間弥五助は「伊与ニて首尾能、又 大方様へ御奉公仕候故、立身被仰付、田坂茂右衛門と申」とあります。 この「大方様」を西尾和美氏は河野通宣に嫁し、河野通直の生母である宍戸隆家娘と解釈され、弥五助を「大方」によって独自に取り立てられた河野氏家臣の存在例としてあげられています[4]。

しかし、この分限帳に現れる「大方様」に注目すると、この解釈についての疑問が生じます。 藤原弥助には「小田殿より大方様御供仕候、立身被仰付」とあり、弥助は小田氏から元吉へと嫁いだ「大方様」と共に能島へ来た後、「立身」したことがわかります。 また、既に述べたとおり分限帳の記載がほぼ天正末期以降、基本的には関が原合戦頃以降のものに限られる事を考えれば、弥五助の仕えた「大方」も元吉妻であると考えられます。 「伊与(予)ニて首尾能」とは、慶長5年の伊予での戦いにおける活躍を指しているものでしょう。

能島衆からの脱落

この「行衛覚書」からは、人々が様々な理由で能島村上氏を離れていく様が見て取れます。 暇を与えられ引っ越すものも多くいたようですが、「走り」すなわち逃げ去っていく者達の存在も少なくありません。

東右近助

分限帳の先頭に置かれ、家中でも高禄を食む東右近助ですが、血縁的に村上景広と近い関係にあった事もあってか屋代島を離れたようです。 右近助の項には関ヶ原合戦前後の状況だけではなく、長々とそして如何に不忠な人物であったかが書かれています。

「右近事六歳ニ被為成、御主ヲ捨て御家之大事有之、不忠不儀御家中無隠、他国迄も沙汰仕たるとのよしニ候」 とその行動を激しく非難し、その逃亡前後の状況についても 「右近丑ノ歳七月末走り申候前ニ村上八郎左衛門(景広)殿御立退、無程右近走り申候」 とあることから、右近助逃亡の直前に毛利家中を離れた村上景広をも暗に非難していると取れるかもしれません。

景広が慶長6年4月には毛利氏を離れていたことは、乃美景継の起請文[5]から確認ができますので、その後、景広からの勧誘が起こったものでしょうか。 その後の東右近についてはなぜか景広の子景則と誤認されている節があるのですが、熊本藩士として東右近大夫から続いたとする村上孫四郎家がこの家系でしょうか[7]。

村上四兵衛

80石取りと分限帳の中では東右近助、村上左馬助、友田次兵衛に次ぐ給地を持つ人物です。 四兵衛は能島衆が屋代島へと移ったのち、安下庄から「あたけと申大船」へ武具や馬具などを詰み、その他数艘の船で縁者30人程と逃げ、近年戦ったばかりの伊予の加藤嘉明を頼ったとしています。 四兵衛は1000石で、残りの者は100石で召し抱えられるも3年後、正月の祝いの帰りに酒盛中に船が転覆し、誰も助からなかったと伝え、それを「行衛覚書」では「天命至極」と糾弾しています。

なお「四兵衛一同に走り申候」と四兵衛以外に「四拾四人」の給人中で16名、それ以外の小給人から13名、中間2名について記されています。 この他4名の「四兵衛組也」とされる人物はこの時逃亡した訳ではないのかもしれませんが、分限帳に名を残す人物のうち、2〜3割が四兵衛と共に能島衆を脱落したということになるわけです。 給人の多くが四兵衛に同心したことは、当時の苦境を現すと共に、字数を割いて詳細に記述されるその顛末が衝撃を示していると言えそうです。

ただし、この逃亡については異説もあるらしく金谷匡人氏が村上家に伝わる口宣案写が収められた箱には、「正文は村上四兵衛が文禄2年窃盗し伊予へ渡る途中風早郡の沖で船が沈み四兵衛もろとも海へ消えた」と記されている事を紹介されています[7]。 話としては興味深いものですが、家臣団崩壊という観点からもこの退去劇は慶長5、6年のものではないでしょうか。

周 小兵衛

四兵衛と逃亡しつつも「伊予へハ不参由申候」とあります。 この小兵衛は先の慶長5年の道後周辺での合戦で「久米郡如来院へ取籠申候節、黒田九兵衛懸付、門押破懸入候ヲ小兵衛鉄砲ニて打殺申候」という手柄をあげています。 戦場での事とはいえ、黒田氏縁者からの報復を恐れたのかもしれません。

加藤氏側の記録でも、久米での戦闘で黒田九兵衛が討ち死にしたということは記されており[8]、その黒田九兵衛を祀る社が、如来院近くの日尾八幡神社の石段脇に今も残ります。

「行方覚書」の記述者

最後にこの「行方覚書」は誰が書き残したものか考えてみます。

元となる分限帳は「行方覚書」の中で村上与兵衛によるものである、と以下のように記されいます。

走り申候、是ハ物読被仕、能筆ニて御座候、此分限帳与兵衛筆ニて候、

与兵衛は「走り申候」とあることから、この「行方覚書」を書いた者は別に存在している訳です。

覚書部分で記述者特定に関連しそうな記述は一カ所だけ確認できます。 「伊与村崎と申所ニ引越住宅、我等三拾之頃参会申候、今も子孫可有之候、」との記述が残る赤畝彦右衛門です。 共に能島家中にある時点では「参会」とは用いないでしょうから慶長5年以降のことでしょう。 すなわち、記述者と赤畝彦右衛門とはほぼ同世代で、慶長5年から数年の頃に30歳を迎えたと考えられます。 分限帳末尾の記述が寛十、つまり寛永10(1633)年まで続いていることをみると、その時点でも記述者は5~60歳ということになり存命であってもおかしくありません。 また、逆に朝鮮への出兵時以前には年若く、自ら見聞したものがないため、古い事績が記されていないとも言えるのかもしれません。

ここで、家中の詳細な事情を把握しているものという条件、さらには出奔したとはいえ東氏への痛烈な批判などから老役の人物が候補として考えられます。 覚書が記す老役の人物を取り上げると以下のようになります。

  • 東右近(関が原合戦後出奔)
  • 友田次兵衛→勝右衛門
  • 江師宇兵衛(後御暇)
  • 嶋助右衛門
  • 大濱内記→九郎左衛門
  • 大島四郎右衛門(東と出奔、後に帰参して老役)

老役は4家で、東の出奔により、大濱が任じられ、江師の御暇後に帰参の大島が任じられています。 この6家から行衞覚書の記述者を考えると不在の期間がある東、江師、大島の三家はその動向から除かれます。 よって友田、大濱、嶋のいずれかではないか、と思われますが、友田氏関係者の可能性が最も高いのではないかと想像します。 一つには、巻末に記された主に老役に関する動向の中で、勝右衛門という人物が現れますが、この人物のみ友田次兵衛の項にも「行方」が見えません。 また、その他の記述でも「先主の印」を望んで友田次兵衛を頼った手嶋平右衛門を景親へ風呂で引き合わせた話、岡村宗寿が大野千熊を人質とした話など友田(大野)氏に関するものが散見されることも注目されます。

補足

本項についても執筆中に藤田達生氏による『秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 』(中公新書)が発売になっています。 同書においてもこの分限帳が紹介され、その内容の一部が掲載されています。

注釈

  1. 「宮窪村上文書」43 能島家家頼分限帳(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  2. 「屋代島村上文書」204 北畠正統系図(『宮窪町史』)
  3. 福川一徳、甲斐素純「久留島家文書(3)-(5) 」(『玖珠郡史談』21〜23号)に系図では天正8年に生まれ、来島左門と名乗った通則は慶長5年に京で亡くなったと伝わるようです。
  4. 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』「第5章 戦国末期における芸予関係と河野氏大方の権力」(清文堂出版、2005年)
  5. 「毛利家文書」1205 (慶長10年)4月8日 佐石州宛 乃美景継起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)。注記では慶長10年と比定されていますが、宛先の佐石(佐世石見守元嘉)の名乗りとその内容から慶長6年のものです。
  6. 肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳【む】の部
  7. 金谷匡人『海賊たちの中世』海賊と海賊衆 P71(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、1998年)
  8. 「加藤嘉明伝」(『松山市史料集』第2巻 考古編 2.古代・中世編.近世編 1.文化編、松山市、1987年)

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コメント 1

呑舟

この覚書はとても興味深々です。
確かに慶長5年から後に書かれたものでしょうがそんなに時間は経って
いないと思っています。
内容的には屋代島移住前の石高と思っています。

•友田次兵衛→勝右衛門

と出てきたので私なりに愚見を呈します。彼は、
分限帳に八十二石四斗一升六合と書かれますがこれは村上元吉が能島城
を明け渡した後に与えられた友田治兵衛(これは変名であり、本名は大野
兵庫直政)への西能美島の所領のことです。分限帳にもそう書かれて
いると思います。勝右衛門はこの西能美島の庄屋山野井源兵衛宅にて
生まれた直政の子 直房のことです、後に彼は是水と号しますので
「是水文書」として当時の様子を書き残しています。
大龍寺(現龍心寺)の由緒の経緯も書残していますが活本にはなっていません。
尚、大野直政は河野家家老大野直昌の甥です。
天正10年4月10日秀吉の調略に来島村上、能島村上それどれの代理
を招聘し彼は能島村上元吉名代として姫路会談を行い、信長帰属を断り
後に武吉とともに秀吉に追いかけられ友田治兵衛と変名して灘を逃れ
ます。両名の救命を毛利・小早川が特使浅野長政を説得します。
来島は河野家後継になれなかった腹いせか秀吉に走ります。
このあたりは『萩藩閥閲録・同譜録』が語ります。

大龍寺由緒については史料を整理して投稿しましょう。
by 呑舟 (2012-02-15 17:28) 

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