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四国中世史研究 第10号 [資料]

少しずつこれまで宍戸景好を取り上げて行くために手元のメモをまとめようとしていた、そのようなタイミングで最新の四国中世史研究の会誌、『四国中世史研究』第10号 に目を通しました。 すると、タイトルからはうかがい知ることはできませんでしたがその中のひとつ西尾和美氏による「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」で、これまで同氏の河野氏を巡る主張の中で抜け落ちていた(と私が個人的に考えていた)宍戸景好(と河野氏の関わり)を取り上げた研究内容がまとめられていました。

いずれここで取り上げるつもりでしたが同氏の「高野参詣と上洛-天正十六年の河野通直母等連署宿坊証文をめぐって-」(『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)では、宍戸景世=平岡太郎通賢と主張されているだけで、景好への言及がないことを残念に思っていました。 例えば山内譲氏の『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』では、明言はされていないものの宍戸景好=景世という解釈になっていたりするようではあるものの、河野氏との関係がうっすらと見えつつも中国サイドの人物となる宍戸景好について恐らく初めてまとまった内容で取り上げられたということで嬉しく思います。

西尾氏の主張すべてには同意できない部分もあるのですが、少なくとも私などが確認している史料はプロの仕事として当然ながらすべて押さえておられる上に、その他にも多くの史料を取り上げておられます。 今後は西尾氏の主張を紹介しつつ、気になる点や言及されている点を取り上げてみたいと思います。 ということで手元にある書きかけの文章もすべて見直す必要が出てきました。

その他にも同誌には、伊予の戦国時代についての論考が多く掲載されていますので合わせてその概要を紹介しておきます。

-戦国期伊予河野氏と将軍 山田康弘

河野氏と幕府の関係について、その間に立っていた梅仙軒霊超の動きなどが取り上げられています。 霊超が河野氏に対して強い立場を持っていること、また義輝暗殺の際には詳細で正確な情報を早期に伝えていることなどが紹介されています。 具体的にどういう素性の人物であるかについては明らかになっていませんが30年に渡って河野氏と将軍家の間に立っていることから一般的な将軍家の側近とは異なる立場にあったのではないかとしています。

-元亀年間の伊予-来島村上氏の離反と芸予交渉- 中平景介

元亀年間の村上牛松の離反劇に至った理由について、整理考察されています。 来島村上氏に対抗し得る力を持っていた平岡氏の動きを取り上げ、毛利一辺倒ではない河野氏の動きとして大友氏への接近や室町幕府との東予2郡返還交渉につながり、来島村上氏を刺激して離反劇を生む一方、瀬戸内での権益の観点から親毛利勢力としての立場は維持されていたとされています。

-天正前期の喜多郡騒乱の地域的展開-天正七年前後の争乱と予土和睦をめぐって- 山内治朋

喜多郡の動静について虚実入り交じる伝承を排除して史料からその実態に迫っています。 史料からは天正12年頃まで長宗我部氏の進出は見られないが、伝承では早くから喜多郡に進出していたとされていることから、これを喜多郡には反河野氏の勢力が存在していたために生じたものではないかとされています。 同氏による「戦国期の肱川下流域について-須戒・横松地域を中心に-」( 『研究紀要』 14号、愛媛県歴史文化博物館、2009年)と合わせて読むことで喜多郡での動きについて、残された史料とそれがどう理解されているかを知る助けになると思います。


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呑舟

『元亀年間の村上牛松の離反劇に至った理由について、整理考察されています。来島村上氏に対抗し得る力を持っていた平岡氏の動きを取り上げ、毛利一辺倒ではない河野氏の動きとして大友氏への接近や室町幕府との東予2郡返還交渉につながり、来島村上氏を刺激して離反劇を生む一方、瀬戸内での権益の観点から親毛利勢力としての立場は維持されていたとされています』

これは具体的にはどのようなことを指しているのでしょうか?

私は来島村上が河野家相続が、河野家家臣団によって拒否され
悶々としていた所に秀吉からの調略にあい秀吉側に走ったと考えて
います。結果的に秀吉の天下となり来島は森城主に納まり明治を迎えますが。

この調略は会談形式で行われ、世に云う「能島・来島・秀吉姫路会談」と呼ばれるものです。この時、能島村上総代として出席したのが大野兵庫直政(後、この時断ったので秀吉に睨まれ友田治兵衛と変名、秀吉没後大野姓に戻す。刈屋口の戦いに村上元吉ともに参戦)時は天正10年4月10日と思われます。
この頃は秀吉の調略戦は激しく、河野家にも秀吉使者が来てますし、小早川を揺さぶるため能美(浦家)親子も誘っています。
親父はコチコチなので離反しないと思っていたのか、息子の方に
離反恩賞で長門・周防・安芸を与えると別条件の甘い言葉でさそっています。
村上元吉にも四国全部を与えると言ってます。
空手形もいいところですが、秀吉の調略を受けた人たちには
甘い幻想を抱いた人もいたことでしょう。

河野氏が大友氏になびいたとする説は初めて聞きます。
どのようなことでしょうか?
村上武吉なら河野、大友、毛利を天秤にかけながら算盤をはじいていた形跡はあるのですが。
敵対勢力土佐一条家と縁戚関係をもつ大友と手を結ぶことはないと
思われるのですが。しかも河野は毛利との縁戚関係があり、毛利と敵対している大友に接近するは思えないのですが。

この時平岡氏はどのような動きをしたのでしょうか?
平岡の誰でしょうか?

中平景介氏の説は全体的に無理があるような気がしますが?

by 呑舟 (2010-06-08 05:01) 

takubo某

細かいメモが今、手元に見当たらないのですが、基本的には喜多郡でのものを含む来島衆の動きを軸に見られていたように思います。
当サイトでも紹介していますが最近の「伊予史談」誌上での山内譲氏の論と合わせて詳しくは当該誌をご覧いただいた方が早いかと。

by takubo某 (2010-06-09 22:30) 

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