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宍戸景好の諸大夫成(1) [人物]

宍戸景好が名乗ったとされる掃部ですがその名を確認できる史料はあまり残されていません[1]。 その中の一つが「掃部」が小早川隆景家臣として諸大夫成で得た正式な官位であったとするものであり、その正否について考えてみます。

小早川家中の諸大夫成

豊臣秀吉は諸大名統制策として、朝廷を利用し、有力大名や陪臣に当たるその家臣への叙任も進めていたようです。 このいわゆる武家の諸大夫成の事例の記録を下村效氏が丹念に集められています[2]。

そこには、例えば毛利輝元家臣の諸大夫成としては主に閥閲録などをその出典に、天正16年の堅田元慶ら9名を始めとして20名以上の名前が残っています。 一方、小早川氏の家臣として記録に残っている者は1名も出てきません。 下村氏が一部に残る隆景家臣の諸大夫成を伝える記録をどのように判断されたのかは不明ですが、その点も含めて隆景家臣の諸大夫成は不明であるということでしょう。

もちろん文禄5年(あるいは文禄4年)[3]とする隆景の清華成からその死までの期間が短いことや、その期間のほとんどが小早川家では隠居した身という立場にあったことなどから諸大夫成した隆景系家臣自体の数が少なかったことや、後に毛利氏を離れた隆景遺臣も多く、そのため記録が残っていないという側面もありそうです。

掃部頭武吉

ところで、先の下村氏が収集された記録の中に姓が欠けて不明な武吉という名の人物が慶長3年4月15日に掃部頭を与えられているものが挙げられています。 この名乗りを聞いて真っ先に頭に浮かぶのは能島村上氏の前当主村上武吉です。

しかし、この時期既に能島村上氏の当主は実質的にも子の元吉と言ってよいはずで、武吉自身の名乗りもそれより10年以上前から安房守を経て大和守となっています[4]。 関が原の際の伊予侵攻に関連する発給、受給の各文書類でも大和守と掃部が並んで書かれているものも多く、掃部頭は元吉であり、武吉は大和守を称していることが分かります。

他家にも武吉という武将が存在し、その人物が掃部頭に任官された可能性も当然考えられますが、今のところそれらしき人物も見当たらず、時期を考えれば子の元吉が任官されたことが誤って記録されたと考えられるかもしれません。 官位を受けた武家側の記録ではなく、『柳原家記録』に記されているもののようですので、人名の誤りは有り得る話でしょうし、一方で官位を与えられた人物の実在は確かであると言えるのではないでしょうか。

宍戸氏の諸大夫成

また、同じく下村氏の集めた記録の中に『晴豊公記』によって天正18年までに宍戸氏からも誰かが諸大夫成していたようです。 ただ、具体的な名前も官位も不明となっています。

景好の長兄で、祖父隆家から宍戸家を引き継ぐ元続が従五位下備前守となるのは文禄4年です[5]。 それまでは九郎左衛門尉を名乗っているようですので備前守以外の官位をこの時までに得ていたとも思えません。 この他、同時代に宍戸氏で従五位下と系図が伝えるのは元就の娘婿である安芸守隆家、その子元秀、さらに元秀の子で輝元夫妻に寵愛されたと伝わる民部元真が挙げられます。

元続の任官に先立つ時期ということで、隆家が任官を受けたとも考えられますが、毛利氏内部での一門衆としての待遇を考えると元就在世中の早い時期に官位を得ていたとしても不思議はない存在です。 子の元秀は既に天正初期には宍戸氏の家督継承者からも外れていたと思われ、豊臣政権下での叙任には適当ではないとも言えそうです。

民部元真は天正3年の生まれということで、年齢としては幼年過ぎるようにも思われるのですが、宍戸氏に伝わる系図には輝元が中納言になった際に元真も諸大夫となったとしているものも存在します[6]。 またこの前後に証人として上洛していたのであれば、その際に叙任を受けるといったことはあり得たのかも知れません[7]。

「小早川隆景公御家中名有侍付立」

話を小早川家中と景好に戻しますが、「小早川隆景公御家中名有侍付立」(以下「侍付立」)[8]は、数少ない小早川氏の家臣団についてのまとまった史料です。

この史料が元々いつ頃作成されたものかは不明ですが、冒頭の「承応2年稲葉泰応様滝沢公御後見ヨリ被還」「公儀エ御書出シノ分」といった文言からも直接的には江戸時代に入ってから整備されたものと考えられます[9]。

この史料には、家老や侍大将と言った区分の他、備後随臣衆、備中随臣衆といった表現が見られる当たりにも、「三原衆」に限られるとしても現実を反映したものではない様子が伺え、あくまで何らかの基準で集められた資料から人名を収集したものといった捉え方が適切なように思います。

例えば村上一族でも新右衛門(因島の隆吉か)や八郎右衛門(笠岡の八郎左衛門景広か)などの名前はありますが、武吉親子などの名前は見えませんが、これが毛利氏、小早川氏それぞれへの臣従の度合いをはっきり示しているかと言えば難しいのではないでしょうか。 その他九州で隆景に従ったであろう武将の人名も見当たりませんが、一方で伊予出身の曽根孫左衛門(景房)の名前があるのは不思議なところです。

「侍付立」での宍戸掃部

「侍付立」では宍戸掃部は「隆景公中納言被任候時諸太夫ニ被仰付候衆」として挙げられている8名の中のひとりです。 文字通り受け取るのであれば、小早川家中のいわゆる諸大夫成した家臣のリストと言えそうですが、その8名は以下の通りとなります。

  • 益田 修理
  • 粟屋 左馬
  • 宍戸 掃部
  • 井上 左京
  • 乃美 主殿
  • 包久 内蔵之助
  • 裳掛 主水
  • 鵜飼 隼人

その多くが小早川一族あるいは毛利家中で名の通った一族であることは確かですが、宍戸掃部以外で名乗りから比較的著名であると言えるのは益田修理亮景祥、乃美主殿助景嘉の2名だけでしょうか。

以降では、諸大夫成があったのであれば、その時期と近いと思われる「八箇国分限帳」[10]の内容にも触れながら宍戸掃部以外の各人について見て行きたいと思います。

注釈

  1. 今のところ当時の史料としては堅田元慶、毛利元康連署書状正岡休意書状くらいかと思います。
  2. 下村效「天正文禄慶長年間の公家成諸大夫成一覧」(『栃木史学』7、1993年)
  3. 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」(『国史学』196号、2008年)で矢部氏は前年に起こった秀次切腹などの一連の動きや、他の書状類などの検証から清華成自体は文禄5年と推測されており、文禄4年の中納言昇進の口宣案については遡及発給ではないかとされています。
  4. 桑名洋一「河野通直(牛福)と能島村上氏の関係について―「屋代島文書」を中心にして―」(『伊予史談』344、2008年)では、河野氏に接近した能島村上氏の武吉が大和守を名乗ったことについて考察がなされています。
  5. 『閥閲録』「巻1 宍戸美濃」8 文禄4年2月27日 豊臣元次宛 後陽成天皇口宣案、9 文禄4年2月27日 豊臣元次宛 後陽成天皇口宣案(『萩藩閥閲録』第1巻、1995年)
  6. 「宍戸家文書」所収の系図には輝元が中納言となるとき諸大夫に任ぜられるとあります。
  7. 「宍戸系図」(『続群書類従』所収)には、秀吉から「吉」の字を与えられて吉内を名乗ったとしています。
  8. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  9. 「稲葉泰応様」は小田原藩主で秀元の孫である稲葉正則、「滝沢公」は秀元の孫の長府藩主毛利綱元を指しています。このことから「侍突立」は17世紀中頃には成っていたようです。
  10. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)

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