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田坂鑓之助のブランド [人物]

能島、来島の両村上氏が共に伊予を離れてしまったことも有ってか、伊予に残る村上水軍関連の伝承は決して多くはないと言えそうです。 その中で、その勇敢さが伝承となり後世にも影響を残した田坂鑓之助について取り上げます。

鑓之助の伝承

来島村上氏の家臣田坂鑓之助貞縁について、以下のような伝承が残ります[1]。

来島村上氏の家臣に武勇の優れた男がおり、それが主君にも認められ、「鑓之助」の名を与えられたといいます。 これが田坂鑓之助貞縁です。

ある時、帆別銭を払わずに通行しようとする武士の一団による海の関所破りが発生します。 これを小早に乗り追いかけたのが鑓之助、相手の船へと追いつき帆別銭の支払いを拒む武士たちの半ばを討取ります。 そのうち桜井浜に船は流れ着き、戦いが続いたものの陸上では多勢に無勢となり、ついに鑓之助は討たれ、首を侍たちの国元へ持ち帰られてしまいます。

鑓之助を討ち、生きて戻った侍たちはそれが卑怯な振る舞いであるとして、領主の佐伯氏から追放されました。 また、里人の手により鑓之助は葬られ、後に江口八幡として祀られたとのことです。

このように鑓之助の武勇とその最期を伝えるものとなっています。

若干これを史実よりに解釈すると、佐伯氏の配下、即ち豊後大友氏に関連する船との争いであったということになり、村上水軍とは何らかの対立関係が生じていたということでしょう。

一方、後日譚として鑓之助には男子が無く、その一人娘が大友氏の家臣、本田治部少輔鎮秀に嫁いだとするものがあります。 鎮秀と死別後に娘を連れて鑓之助の下へ帰り、その娘を鳥生村の野間五郎右衛門へ嫁がせた、とするものです[2]。

久留島藩田坂氏

ところで、その最期が伝承にあるようなものであったかは別として、実際に田坂鑓之助なる人物が存在したことは確かなようです。 関が原の戦い後に豊後玖珠森に移封された来島氏の家臣に田坂氏が続いています。 元は村上氏であり、また鑓之助には男子がなかったことから二神修理進の兄が田坂氏を継いで鑓之助貞興を名乗り、さらにその子が幸長であるとのことです[3]。 幸長の名乗りは、得居通幸の偏諱であると思われますので、改名の可能性はあるにせよ幸長の生まれは遅くとも天正の初め頃と言えるでしょう。

幸長は一時牢人しながらも最後は帰参し、村上通総から来島康親にかけての動静をみるにも貴重な「田坂道閑覚書」を残しています[4]。

ここで、貞興の実弟、幸長には叔父にあたる修理進についてみると、永禄末期ころにはその姿が確認できるようです。 ただ、二神氏自体の系譜史料が混乱しており、また貞興の存在もそこからは確認できませんが、修理進は大友氏の交渉にもあたるなど豊後との関わりもみられます[5]。 幸長の活動時期と合わせても、貞興が田坂氏を継いだのは天文末期から永禄年間あたり通康の時代ではないかと思われますが、その継承が貞縁の死後ただちであったかも不明です。

関係略系図

    ―女子?
田坂貞縁=貞興―幸長
     :
 二神某―貞興
    ―修理進

ただ、豊後田坂氏は鑓之助の後裔を名乗り、一方伊予に残った田坂氏を名乗る人々の間にもこの伝承が残ることから武勇を誇った人物の存在とそのなんらかの悲劇的な最期は早くから知られていたものでしょう。

一方、この時代の芸予周辺の田坂氏としては、小早川氏の家老田坂善慶の名が知られます。 隆景の沼田小早川氏継承に反対して殺された人物ですが、伊予に残る田坂氏が伝える各系譜は鑓之助や善慶の事績が織り込まれたものとなっているようです。 これも上記鑓之助の最期が天文末期であれば混濁して伝わったものでしょうか[6]。

なお、安芸田坂氏自体は途絶えたわけではないようで小早川隆景の側近鵜飼元辰の妻は田坂善慶娘と伝わりますし、慶長年間、善慶後家の知行分を確認することもできます[7]。

鑓之助のブランド

ここで近世に目を向けると鑓之助の伝承が残る伊予府中にはその縁を伝える人々が存在しています。 この地域において鑓之助の名前が一種のブランドとして機能していたとも言えるのではないでしょうか。

以前取り上げたように能島村上氏の中間弥五助が士分に取り立てられるにあたり、田坂を名乗った[8]背景にも鑓之助の存在があれば、近世初頭には海賊衆にとっても名高い存在であったと思われます。

光範上人

今治藩内の名刹光林寺ですが、『今治拾遺』[9]では14世光範上人を「来島殿家臣、田坂鑓之助貞縁跡なり」と表現しています。

他方、来島村上氏の家老原四郎兵衛の孫として光範上人を伝えるものもあります[10]。 四郎兵衛は村上通総の河野氏離反を諌言し、誅殺されたと伝わります[11]が、その子は足が不自由なため隠棲し、孫に当たるのが光範上人であるとしています。

この伝承のどちらが正しいのか、不整合はしないためいずれも正しいのか不明ですが、少なくとも光範上人の背景に来島村上水軍が語られていることは確かなようです。

野間家文書

今治藩鳥生村庄屋野間家は不思議な来歴を伝えます[12]が、大友家臣本田治部少輔の婿、五郎右衛門が文禄2年に浪人、鳥生村に来住したというものです。 その子伍郎兵衛は田坂鑓之助の娘を妻と伝え、初代鳥生村庄屋となっています。 実際、この家が大友家臣本田氏関連の宛行状など各種史料を伝えていることは事実で、村上武吉が本田治部少輔の海上通行に当たり、間違いのないよう塩飽へ通知したものが含まれるなど瀬戸内との関わりも確認できます[13]。 五郎右衛門が豊後から来たとする来歴自体はおおよそ正しいのではないでしょうか。

本田家は鎮秀の後継者、亀寿の死により、姉妹の大夫女が久松半三郎と婚姻、半三郎が継いだことが大友吉統の天正17~18年と比定されている跡目安堵状からわかります[14]。 この半三郎が野間五郎右衛門ということになるのでしょうか。

先の安堵目安状から、伍郎兵衛の生まれはそれ以降となり、その妻が鑓之助の娘であるのは年代的にも整合しないように思われます。 鑓之助が2代目貞興の娘の場合でも世代的に厳しいと思われます。

一方、大友氏との交渉に二神修理進が当たっていた[15]とのことであり、修理進の義姉妹にあたる女性により『与陽盛衰記』が記すような鎮秀との縁戚関係が成立したと考える方がまだ現実性があるとも言えそうです。

関係略系図

        鑓之助娘?
        |
本田経秀―鑑忠―鎮秀―亀寿==大夫女
          ―大夫女 |
             久松半三郎
             野間五郎右衛門?―伍郎兵衛―与左右衛門―
                      |
                      鑓之助娘?

今治藩重見氏

今治藩士の中には河野氏庶流重見氏を名乗る家が存在します[16]。 元は尾原氏、田坂氏を名乗って今治藩士となり、最後に重見氏へと復していますが、その経歴として下記の系譜を示しています。

(得能)越後守通宗―(重見)但馬守通勝―因幡守通親―掃部頭通昭―因幡守通種―(尾原)治部大輔通兼―次郎右衛門通明―九郎兵衛門通利―(田坂)清左衛門貞須―紋左衛門須親

貞須が藤堂家臣となるも牢人、次の須親の代に今治藩士となり、後の六代重見藤太親清が重見氏と改めたとのことです。

「尾原」はこれもまた「与陽盛衰記」に見えます。 かつて河野氏に叛旗を翻して伊予を追われ、厳島合戦で陶方について自刃した重見通種の遺児3人の一人が名乗ったものとして現れます[17]が、これに沿った系譜を提示していることとなります[18]。 貞須が田坂を称した理由については、貞須の母が先の野間五郎右衛門の娘であり、自身が鑓之助の曾孫にあたるため、としています。 また、同時に鑓之助の逸話についても述べられていますが、ここではその妻が大友家臣本田鑑忠の娘ということになっており、婚姻関係が他の伝承と逆になっています。

まとめ

今ではかつての伊予府中地域でもほとんど知られることのなくなった、村上水軍の勇士、田坂鑓之助にまつわる話をまとめてみました。

注釈

  1. 『玖珠町史(上)』(2001年)第4編 森藩と天領(近世編)、『来島・小島・馬島』(今治市役所編、1987年)を参考にしました。
  2. 『与陽盛衰記』第15巻 第3章 田坂鑓之助が事(1969年刊本分による)
  3. 『玖珠町史(上)』(2001年)第4編 森藩と天領(近世編)
  4. 福川一徳、甲斐素純「久留島家文書(6)」(『玖珠郡史談』24号、1990年)
  5. 福川一徳「伊予二神氏と二神文書」(『四国中世史研究』第6号、2001年)。玖珠町史で田坂氏に言及のある福川氏ですが、修理進兄の鑓之助についての検討はありません。
  6. 田坂修一郎「伊予田坂氏について」(『玖珠郡史談』26号、1991年)
  7. 「広島御時代分限帳」(山口県文書館所蔵、藩政文書 毛利家文庫 52給禄13)
  8. 「宮窪村上文書」43 能島家家頼分限帳(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  9. 『今治拾遺』「寺院 二十之巻 光林寺」(『今治郷土史 資料編 近世 1』1987年)
  10. 『玉川町誌』「第1編 沿革誌 第2章 中世社会 第3項 河野氏と玉川」(1984年)
  11. 『与陽盛衰記』第16巻 第3章 来島通総太閤秀吉公御味方に参る事((2)に同じ)
  12. 「野間家文書」解題(『今治郷土史 資料編 古代・中世』、1989年)
  13. 「野間家文書」19 (永禄13年)6月15日 塩飽嶋廻舟宛 村上武吉書状
  14. 「野間家文書」11 (天正17~18か)5月6日 本田大夫女宛 大友吉統跡目安堵状。亀寿の跡について久光半三郎と結婚した上でそれを認める旨の内容となっています。
  15. (5)において、天正13年の二神修理進宛大友義統書状の原本の発見が紹介されています。
  16. 『今治拾遺』「重見元一親伏家譜」((9)に同じ)
  17. 『与陽盛衰記』「第14巻 第2章 重見因幡守が事・附木原・尾原・栗原三子の事」((2)に同じ)。ここでは遺児3人が木原、尾原、栗原を名乗り、それが三原の由来となったと記しますが、これは事実とは言えないようです。『閥閲録』巻83 重見与三右衛門(『萩藩閥閲録』第2巻、1995年)によれば系図上では通種子の兵部少輔が木原に住してそれを名乗ったとしていますが、三兄弟の事は現れません。兵部少輔弟の次郎兵衛元定が輝元に重用され、毛利家中では木原氏から後にやはり重見氏に復しています。

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